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2008年8月

2008年8月31日 (日)

固い結束に向きあう恐さ『ローズ・マダー』

ローズ・マダー 狩人の夜

『ローズ・マダー』(新潮社/スティーヴン・キング,訳:白石 朗)

ドメスティック・バイオレンスに苦しむ女が、意を決して逃げ出す。
夫は警察官だ。
彼が殴ってくるたびに、指にはめた警察学校の卒業記念リングの、学校名が肌に刻まれる。もちろん、殴ってくるのは目立たない腹部など。
「階段から転げ落ちた」にしては不自然な傷も、病院ではいぶかしがられても、最終的に処理がまわる警察では、みな夫の仲間ばかりである。
警察が汚職ばかりであてにならない、と言うより、よほどリアルで怖い。

現代版『人形の家』かと思いきや、後半は異世界に飛んでしまい、夫は化け物に変化する。
キング本人の評価は低く、どうも売れ行きも良くなかったらしい、不遇な作品だけれど、嫌いではない。

指輪と刻印から思い出したのは、映画『狩人の夜』(監督:チャールズ・ロートン、出演:ロバート・ミッチャム)

拳固をつくった側面の指に「LOVE」「HATE」の刺青を持つ男と、二人の子供の話。
刺青だから、それほど凹凸はないのに、その手で殴られたら痕が残るだろうかと思いながら観ていた。
そのふたつは、殴るに至る理由をあらわしてもいるだろう。

後半、いよいよ子供の襟首に手がかかりそうなところで、スローモーションになる場面があり、「悪夢のなかでは、いつも足がのろい」ことを思わされる。

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2008年8月30日 (土)

組織になじんでいく過程を書く『羊たちの沈黙』

羊たちの沈黙 影響力の武器[第二版]

『羊たちの沈黙』(新潮文庫/トマス・ハリス,訳:菊池光)

映画版を「クラリスとレクターのラブストーリー」と称した評を聞いたことがある。
抵抗も警戒もあるのに関わらず、次第にレクターに心を開いていくクラリスを、良かったと思うかどうか。
『影響力の武器』(誠信書房/ロバート・B・チャルディーニ,訳:社会行動研究会)を読んでいると、クラリスはいいように利用されているようにも見える。

小説では、クラリス・スターリングの心理描写に多くが割かれる。
彼女はFBIという組織からは、まだ仲間とみなされていない。直属の上司、クローフォドとのやりとり、時に苛立ち、哀れみ、無条件の尊敬を通じて、組織へのロイヤリティを形成していく過程が描かれるのが、映画とは趣が異なる。

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(*初動捜査で、警察犯罪捜査課の係官と挨拶を交わす場面)
彼があっという間に男性同士の結び付きを確立するのを見て、スターリングは興味を覚えた。何かあったら直ちに連絡する、任せておいてくれ。それは 有難い、恩に着るよ。事によると、たんに男性同士の結び付きだけではないかもしれない、彼女は考えた。彼女にもその連帯感が伝わってきた。
(p.132)
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(*人一倍、現場を駆けずり回ったあげく、病床の妻の世話をしに帰宅するクローフォドの後姿を見送りながら)
その瞬間、彼のためなら平気で人が殺せる、とスターリングは思った。
それがクローフォドの卓越した能力なのだ。
(p.141)
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「クローフォドの卓越した能力」の詳細は、30章(p.269~)の、怒りで眼がくらみそうなクラリスを巧くなだめる場面にある。
人望をあつめる人物の不思議さを、能力と言い換えている。

特に、翻訳が読みづらいとは思いませんでした。

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救いをもたらす「風」が吹く『バイオの黙示録』

未来歳時記・バイオの黙示録 (ヤングジャンプコミックス) 14歳 (1) (小学館文庫) 風が吹くとき

『未来歳時記 バイオの黙示録』(集英社/諸星大二郎)

『人類が消えた世界』(アラン・ワイズマン/早川書房)は、未来シミュレーションにかこつけた現代批判で、中途半端な出来だったのが不満だった。

楳図かずお『14歳』と、ところどころ重なって見える、未来図。
遺伝子操作が繰り返された末に、いつしか人間と他の生物がまじりあった。
人は皆、知らず知らず、何らかの遺伝子のキャリアを持っていて、発症するときを恐れている。

最終章のタイトルは「風が吹くとき」。
同じ名の絵本(あすなろ書房)では、核の冬に肩を寄せ合う夫婦が描かれていますが、こちらの「風」は、救いをもたらすものとしても描かれています。

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ひとり暮らしの大人向けでもある『家を出る日のために』

家を出る日のために (よりみちパン!セ 32) (よりみちパン!セ 32)

『家を出る日のために』(理論社/辰巳 渚)

ひとり暮らしと、自立していることはイコールではないと説く。
ましてや、「人に頼らない」ことは、あやまった自立であるとも読める。

作者の名前は、初めて眼にした。
『「捨てる!」技術』が代表作だと略歴にあるのを見て、かすかに聞いたことがないでもない。
理論社の<よりみちパン!セ>シリーズは、いっけん子供むけでありながら、そうした年かさの読者を想定しているような気がしている。
今の子供は、あまたの情報にのまれていて、たとえばこんな質問を投げられたら、あなたは答えられますか、教える構えがありますか、と問うてくる。
「味噌汁の出汁をとっているかどうか」「いつも部屋を整えているかどうか」胸を張れる人は、堂々としていれば良い。

「児童書として図書館に売れる」「大人むけ新書としても売れる」一挙両得をねらった、商売上手とも言える。

理論社の「よりみちパン!セ」シリーズ、この頃、第5期の刊行が始まった。
第一弾は『カレーになりたい!』(水野仁輔)
続刊は、杉作J太郎、西原理恵子、佐藤優など。

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文系学生のための、就職にむけた文章を書くレッスン『文章表現 400字からのレッスン』

文章表現400字からのレッスン (ちくま学芸文庫)

『文章表現 400字からのレッスン』(ちくま文庫/梅田卓夫)

始めに「自分にしか書けないことを、だれにもわかるように書く」のが良い文章だと定義する。
「だれにも書けるようなことを、だれにもわかるように書く」文章は、ややもすると、悪い文章には見えないだけに、いちばん始末におえない、借り物の文章に過ぎない。
なぜ、そうなってしまうのか。
かげには、名文崇拝の伝統があり、文章と作者の人格との混同があるとする。
人格とことばが分かち難いと思うと、書けるものも書けなくなる、切り離して考えて良い、とソシュールをまじえて話す。(第1章)
「概念図でなく細密画を、全体ではなく部分を」書くことをすすめ、練習として、目の前にあるコップを描き、そこからことばに起こすことをすすめる。
(第3章)

もちろん、このまま就職の志望動機や自己PRに使えるかといったら使えない。
だが、ありのままに事実を思い出して書きあらわすことが難しいことを思えば、心構えとして役立つように思う。自己PR=自分自身と思うと、文章を否定されれば自分も否定されたとなるが、そうではないのだ。

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○人がふつう考えているのとは反対に、《人間は、一般的なものから個別的なものへ、抽象的なものから具体的なものへと高まっていくものなのです》(このことは教育学において大切な意味を持ちます。)
 シモーヌ・ヴェーユ 渡辺一民・川村孝則訳
 『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫
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(p.204より一部引用)

抽象的なことばかりやってきて、何になるのかという批判と折り合いをつけるための、エールに見える。
実名と学部・学年入りで紹介される例文が、大学三年生が多いことから受けた印象もあるのかもしれない。

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とかく噂をたてられる『羊たちの沈黙』

羊たちの沈黙 (特別編) 羊たちの沈黙 特別編

映画『羊たちの沈黙』(監督:ジョナサン・デミ、出演:アンソニー・ホプキンス,ジョディ・フォスター)

いまさら初見とあっては、見ない聞かないようにしても、細切れの情報は知ってしまっている。
あらましから抜け落ちた部分を、埋めるための確認作業に堕ちてしまわないかが残念で、先送りしていたもの。

クラリス(ジョディ・フォスター)は、FBI研修生の中では数少ない女性であり、美しく、成績も優秀であるため、あらゆる意味で耳目をあつめる。
ジョギング中には同期の目を引き、調査を依頼した博物館の研究員にはナンパされ、刑務所の担当医にも色目を使われる。

牢内のレクター博士(アンソニー・ホプキンス)は、そうした視線にさらされているクラリスを庇護する。
また、直属の上司にも同じ目で見られているのだと脅す。
彼女の生い立ちにまつわることを語らせて、理解を示すことで、懐柔に成功する。

ジョディ・フォスターには、あれこれと噂がたえなかったのだと、映画雑誌などを通じて知ってしまっている。
美少女の子役でデビューしたせいで、思春期でやや太りがちになったくらいで罵られる。男性不信であるとか、レズビアンであるなどの噂が立てられ、子供も体外受精の結果だと書き立てられた。

本当にゴシップめいた話でしかないのだけれど、作中でぶしつけな好奇の目にさらされ続けるクラリスを見ると、映画の画面外にある、そうした来歴が重なって見えた。
クラリス役もまた、「嫌な経験」のひとつに数えられていたのではないだろうか、と憶測すら生じる。
(ジョディ・フォスターは、続編『ハンニバル』クラリス役のオファーを断っている)

今となっては、そうした見方が入り込む。
役柄がとらわれた過去、女優がとらわれた過去は、どこまで分かれるものなのだろうか。
もう少し早く観ておれば、その点、悩まずに楽しめたように思うのが、残念ではある。

※ 小説版『羊たちの沈黙』レビューはこちら 

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ポストモダンのパロディ小説『超哲学者マンソンジュ氏』

超哲学者マンソンジュ氏 (平凡社ライブラリー)
『超哲学者マンソンジュ氏』(平凡社ライブラリー/マルカム ブラドベリ, 訳:柴田 元幸)

どうやら思想史には「マンソンジュ」という人物がいたらしい。
彼がいた証明を誰かがしないかぎり、いないものとしてあつかわれる。義憤を感じた作者が、残された一冊の本からマンソンジュの業績をとりあげようとする。
実際に見た者の意見ものこっておらず、あくまでも書かれたもののみで判断するより他ない。

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「交接のコギト」が無化され、それによって主体という概念、概念化する主体、その両者がともに失効するに至る。知的生活の展望は音を立てて崩れ落ちる。
そして、さまざまな出展(その大半はいまだ存在が確認されていない)に関する十七の脚注が付され、それとともに、マンソンジュ自身はほぼ完璧な無名性の彼方へと消えてゆく。これぞまさに、現代における最大の知的偉業以外の何ものでもあるまい。

(p.164より引用)

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作者はいなくとも、業績や作品は残ると踏んでいたところ、マンソンジュは始めからいなかったことがわかる。
脱構築、ポストモダン、を推し進めたらこうなるという小説であり概論。

どこかで聞いたやりとり
「ご在宅ですか」
「ここには誰もいません」
を思い出す。

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2008年8月29日 (金)

なだめと叱りではかりにかけて『働く過剰』

働く過剰大人のための若者読本日本の〈現代〉12 14歳からの仕事道 (よりみちパン!セ)

『働く過剰』(NTT出版/玄田有史)

喫煙から禁煙を経て振り返ってみるに、タバコには、病気リスクとは別の功罪があるような気がしている。
「何のかの言って中毒に負ける弱さが自分にはある」と認めることで、強すぎる鼻っ柱が折れる者の場合には、いくらかの功を認めても良いだろう。
かたや、もとから自分を卑下することに慣れきっている者には、弱さを認めることでいっそう自分を損なう恐れがある。
タバコにも向き不向きがあり、どちらに転ぶかはわからない。

いつの世も、自分のしてきた苦労は過大に評価するものだし、他人の甘えは目につくものだ。
よくも悪くも、人は自分の経験からしか語り起こせない。
モデルとして自分の歴史を他人にあてはめることは、誰でもやっている。
そのとき、どこまで時代背景を加味したら良いものだろうか。若者の持つ不公平感と、かつて若かった者の昔語りとでは、主観のぶつけあいだと水掛け論に終わる。
本書は、その差を埋めるべく、なるべく資料から時代背景を見ていこうとする。

不況のあおりで新卒採用が極端に絞られたことには、社会的損失・企業の中の人口ピラミッドのアンバランスという以外の、害があるような気がしている。
同世代ですら、自分にも潜む弱さを「失敗した」相手に見出して批判する。自分はそうではないと確かめ、安心を得る。成功も失敗も、あくまで一個人のせいだとするならば、共有できるものを探すのは難しく、他人の共感を受け入れる余地はどんどん狭くなる。
ユニークであることと、孤独とは紙一重だ。
だからこそ、著者は『14歳からの仕事道』(理論社)で、「ゆるいつながり」が大事だと提唱しているのだろう。

結論から言えば、かつては雇用のとば口において、今は労働時間において、不公平は「あった」のだし、今もあるとし、何も若者はそこまで責任を負うことはない、と認める。といって、臆したままでは何も変わらないと指摘するのは、バランスが良い。

非求職者のの多くは「何でもいいから、働きたい」意欲は強いのだという。(第7章)
「何でもいい」と遠慮し、できることとできないこと、したいこととしたくないことの境目はぼやける。結果、意欲だけが空回りし、周りからは「ニートは仕事を選りごのみしている」といった先入観を持たれる。
得るものが薄い、自分の安売りは悲しい。

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ありうべき社会と'自己責任'『確率的発想法』

確率的発想法~数学を日常に活かす

『確率的発想法~数学を日常に活かす』(NHKブックス/小島寛之)

「自己責任」と言いがちなときは、自分にめぐってきた運を実力のうちに含めたがる。運の悪さを呪うときは、実力不足だと言われると切り返せない。
自己正当化がうまくできない人は、往々にして不幸になって、どんどん悪循環に陥る。
そうまで、運と実力は簡単に分けられるものか。

経験から語り起こした個人の成功談や失敗談は、それが自分に適用できるかどうかまではわからない。うなずけるところがあったとしたら、自分の今までの経験に置き換えて読んでいるからだろう。
よく噛み砕いて理解しているとも言えるし、勝手な解釈をしているとも言える。

本書の本題は、口々に言われる「自己責任」が、往々にして極論である、と位置づけるところにある。
それは極論だよ、と指摘しても何もならないので、数字を使って論証してみせようとする。

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自己責任論には、参加者が「自分が何を好ましいと思っているか」ということを完全に、しかも「経験として」知っていることが前提として必要です。
選好に関する知識が完全なら、期待効用理論を適用して自己責任を問い、「あなたが置かれている状況は自ら望んだものだ」と突き放すことが可能です。
しかし、人々が人生において置かれている環境は、完璧な経験や知識を与えてはくれません。(p.199引用)
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冒頭で「この不確実な日常において、確率で推し量ることはとても役に立つのです」というところから、ここに至る。
たとえば不況や何かで、わりをくったと思っている人のうち、楽になる人もいる考えじゃなかろうか。

参考文献リストが充実。

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図書館から借りたものだけれど、買う予定。

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天職か適職か『ザ・マジックアワー』

(劇場映画) 公式リンク http://www.magic-hour.jp/index.html

『ザ・マジックアワー』(監督:三谷幸喜、出演:佐藤浩市,妻夫木聡...戸田恵子)

コメディとしては、意図しないずれ、噛み合わなさを笑うものです。
同時に、自分にとって最善の解を探して、迷う人たちの話でもあります。「適職と天職とは」がテーマとみました。

佐藤浩市は、俳優を「自分のやり方で」続けるべきかどうか迷う。
深津絵里は、街を出て行くべきか、その前に誰をパートナーに選ぶべきかで迷う。
妻夫木聡は、佐藤浩市をだましつづけるかどうか、そもそも深津絵里を選ぶかどうかで迷う。
西田敏行は、のれん分けした部下に、街をゆずるべきかどうか迷う。

実はだまされていたと悟った佐藤浩市は、いままで危険にさらされていたことを怒るのではなく、「あんな一世一代の演技は、もう自分にはできない」と一度は絶望します。
題「マジックアワー」の意味が説かれ「自分で自分を見限ることはないのだ」と思い直す場面には、胸をつかれました。
裏方さんたちが屈託なく、みな素晴らしい人たちに見えるのも、たぶん、選んだ道に迷いがなくまっとうしているからです。

前情報はほとんど仕入れずに観に行ったので、
黒服の女の群れ(バスター・キートン映画?)
市川崑監督(もう亡くなってるから、そっくりさん?)
「黒い101人の女」!!ああ、市川崑は撮影中は存命だったのか。
と、あとから腑に落ちることができました。
やっぱり、観る前の情報は少ないほうがいい。

寺島進が佐藤浩市に「弟子にしてください」というのは果たして、殺し屋稼業に対してなのか、俳優に対してなのか。
最後までコミュニケーションギャップがあって、おかしい。

製作:フジテレビ シネバザール

(2008.6.21)

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花園の垣間見『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』

花咲く乙女たちのキンピラゴボウ〈前編〉

『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(河出文庫)絶版

子供の頃、読んでいる漫画雑誌がなにか、という段になって『週刊少年ジャンプ』をあげる女子がいて、話がわかるじゃねーか、と見る眼をかえてみせる男子、というのがいたように思う。
いまや『少年ジャンプ』が、『少女ジャンプ』なのではないのか、という疑いはある。

各々が自分一人と、世間のかかわりかたについて考えた末、出てきたつぶやきが少女漫画だとする。
明確な「かくあるべし」モデルがないままに、「果たしてこうだろうか」「こうも言えるのではないか」と模索しているものだから、正解がどこかにあるわけではない。各人の納得とともに得られた、仮の答えがちらばっており、それらは、どれも正しい。
落穂ひろいをするように集めた、仮の答えを、今までの物の見方に即して並べ替えてみたら、こうなりましたと紹介する。
構造を作ってあてはめた後に、構造を設けること自体を茶にする、という語り口はあまり好きではないのだけれど、この評論ではうまく働いている。

後編の冒頭から、鴨川つばめ+江口寿論が書かれる。
いくつか題をひろってみると「少女マンガ隆盛のこと 少女マンガ、少年マンガを侵すこと」「矢吹丈、過渡期に生を享くること パンツを前に躊躇う少年のこと」「少年マンガ衰退のこと 少年マンガ、少女マンガになること」
20年以上も前から、少年マンガ侵食さる、と言われていたことになる以上、いまさら『テニスの王子様』を、従来のスポーツ漫画からの逸脱、鬼子あつかいして済ませるのは、ちがうような気がしている。
あれを面白がって読む人は、スポ根として読んではいないだろう。

かつては「仲間に入れてやってもいいよ」のとば口にあったスポーツ(と、スポーツ漫画)を、しんから好きだった女子もいるだろう。
それとは別に、きれぎれに聞こえてくる「なんだか面白そう」な評判をつなぎあわせて、別の解釈をうちたててしまって、これはこれで面白いでしょう、とした女子もいるだろう。

少女マンガを読むに足らない、と思っている人がいるとしたら、読むきっかけになるかもしれないし、ならないかもしれない。

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説教はお好みで『反貞女大学』

反貞女大学 (ちくま文庫) 貞女への道 (ちくま文庫 は 6-17)

『反貞女大学』(ちくま文庫/三島由紀夫)

橋本治『貞女への道』は、自分だけはそんなことにかかずらわないところにいる、という立場から説教をする。
三島由紀夫は、九分九厘まで到達不可能なものとして「反」貞女をあげ、かつ奨励してみせる。

理屈をおしすすめた橋本治の方が、話者に思いが至り、自分のことも引き合いに出す三島の方が、ふしぎに氏素性が気にならない。

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アウトラインから肉づけまで説く『論文の教室』

論文の教室―レポートから卒論まで (NHKブックス)

『論文の教室』(NHKブックス/戸田山 和久)

まずは、知っていることと知らないことをはっきりさせる。
えらんだテーマについて、思うさまちらばった考えを、ひとつの意見・問いに集中させる。
簡単な問いであっても、まずは具体的かつ簡潔なかたちに絞り込まなくては、のちの検証で行き詰まる。
データのあるなしよりもまず大事なのは、論証の形式がととのっているかどうか。

以上第5、6章のプロセスが、類書ではめずらしい。
例文にいちいち作者の専門分野や趣味の話が織り込まれてくるのも、テーマは自分がよく知るものに絞れ、という方針と合致する。

テーマは充分に具体的かつ簡潔なものか、あらかじめ反対意見を想定してあるか。
論文にかぎった話ではない。

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ぐるっとまわってもとどおり『パラレル同窓会』

パラレル同窓会 (小学館文庫―藤子・F・不二雄〈異色短編集〉) 絡新婦の理 (講談社ノベルス) 働きマン (1) (モーニングKC (999))



『パラレル同窓会』(小学館/藤子・F・不二雄)

「女には売るものがある」
は、たったの6ページなのだけれど、京極夏彦の『絡新婦の理』(の一部)と同じことを言う。
たとえば現状に不満だとして、現在の男女の首をそのまますげかえて、果たして満足するものか。
それで満足するのだとしたら、ただその立場に自分がいないという恨みがたよりで、決して「公平」などは望んでいやしないことになる。

安野モヨコの『働きマン』は、そのあたりがひっかかる。

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2008年8月24日 (日)

行きて帰りし物語『また会う日まで』

また会う日まで 上 また会う日まで 下 ギルバート・グレイプ エド・ウッド

『また会う日まで』(新潮社/ジョン・アーヴィング)

会社と家の行ったり来たり、合間を縫って読んでいたのもあって、「行きて帰りし物語」になっていく下巻のはじまりは、復路にふさわしく思えた。

上巻から「あのときの僕は、むじゃきにもそんな理解をしていたのだった」と懐古と批判をまじえた文が折りこまれてくるので、最後には主人公が作家 か何かになって、書いた本がこれなのだろうと予測するのは、たやすい。枠は見切った、それ以上に何かあるか、と構えて読むと、おそらく冗長に感じるだろ う。

主人公は、時間軸にそって、当時の感慨と後付けの理解は混同しないように留意しながら、たどり直す。
他人に一言で断罪されがちな、役者としての自分を、言葉でひらいて、納得する過程が書かれているものだから、あらすじを人に紹介しようとすると、急に三文小説めいてしまうのが惜しく、ためらう。
(たしか、上巻のどこかに、「ことわざや箴言ばかり口にして、その実、何も言っていないに等しい」人物が、少しだけ顔を出していた)
印象だけを言うなら、許すと許さない、愛すると愛されるを行ったり来たりする話だ。

橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」が浮かんでしょうがなかったのは、たぶん、タイトルの語感が似て見えたせい。

これを読んで思い出した映画が2本ある。

『ギルバート・グレイプ』(監督:ラッセ・ハルストレム 出演:ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット・ルイス)

ドラマシリーズで好演していたディカプリオの演技を、ロバート・デ・ニーロが絶賛してこの映画ができ、デ・ニーロにいれあげていた当時の自分は、そこからたどってこの映画を観たようなおぼえがある。 田舎、実家、家族のいまいましい面も、取りこぼさず描かれていたように思う。 ビッグ・ママが鎮座する、食事のシーンが記憶に残る。 90年代、ジョニー・デップもディカプリオも、なにかと暴れる癖があると、ゴシップにされがちだった。

『エド・ウッド』(監督:ティム・バートン、出演:ジョニー・デップ)

「史上最悪の映画監督」が冠になる監督、エド・ウッドを材にとった映画。
作中作でエド・ウッドの撮影風景が見られる。
とても愛着をもって描かれるので、エド・ウッドの映画まで面白そうに思えるけれど、おそらく、観たらそれなりに失望するだろうと予想している。

「暮らしの手帖」編集長、花森安治を思い出す。

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ゲーム愛にあふれながら裏事情をばらす『悪趣味ゲーム紀行』

悪趣味ゲーム紀行

『悪趣味ゲーム紀行』(マイクロデザイン出版局/がっぷ獅子丸)

ファミ通と近いところに並んでいるゲーム雑誌は、ゲームの発表時期が近ければどれも内容は似たり寄ったり。
どこまでも効率を求めるやりこみには、あまり興味がない。裏コードにも興味がないから『ゲームラボ』をのけると、隣にたいてい『ゲーム批評』が置いてあった。

『超クソゲー』よりも先に知ったせいもあり、クソゲーと言ったらこっちが浮かぶ。
業界裏話とともに、名の通ったゲームのだめなところを伏字をいれて書く。ゲーム好きなら、伏字はほとんど意味がない。
けなしがうまくて、全く後味がわるくないのは、だめだだめだと言いながら、いかにだめかを詳しく言える程度にはやりこんでしまっている馬鹿っぽさを、あわせ持つせいかもしれない。

『ゲーム批評』本誌の読者欄で、ファミ通クロスレビューでプラチナ(レビュアー全員が満点)を叩きだした『ゼルダの伝説 時のオカリナ』を、批判していたものがあった。
ゼルダのまずさを指摘しながら、『天誅』を引き合いに出す。それでいて、ゼルダをやりたくないな、とは思わせなかったのを覚えている。

もっと時間をさかのぼれば、「攻略本」と称して、ゲームのあらすじ紹介をネタにした、でも落ちはおそらく適当な漫画があったり、舞台だけ借りたゲームブックが売っていたりした。
そういう解釈が楽しかった時代もあった。

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絵でみるちがい『おとなのしくみ』

おとなのしくみ (4) (Beam comix) ドキばぐ4 3年B組ヒゲ八先生編 (ビームコミックス)

『おとなのしくみ』(エンターブレイン/鈴木みそ)

ファミ通で連載している漫画でありながら、「『ファミ通のクロスレビュー』は本当に信頼に足るものなのか?小売に及ぼす影響をどう考えているか?」ということを、小売と編集側に取材した。
入稿直前にボツになって、浜村通信(編集長)と大モメにモメ、単行本に事の次第を載せることでなんとか合意をみた。
というのは、何巻だったか忘れたけれど、たぶん最終巻の方。
ほとんど立ち読みで読んでるので、手持ちは少ないけれど、ゲーム業界のあれこれがとても面白い。

浜村通信は、『ドキばぐ』(アスペクト/柴田亜美)では人のいいおっさんで、身の丈は柴田亜美とそこまで変わらない程度に描かれている。

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取材漫画として誠実『マスター・ピース・オブ オールナイトライブ』

マスターピース・オブ・オールナイトライブ1 特攻取材 (BEAM COMIX)


『マスター・ピース・オブ オールナイトライブ(1)』(エンターブレイン/鈴木みそ)

真剣におもしろい取材漫画。
いつまでたっても『オールナイトライブ』が復刊しないので、よりぬきなのが気に喰わないながら買う。
週刊ファミ通で連載していた、対象をゲーム業界にしぼった取材漫画が『おとなのしくみ』で、コミックビームに連載していたこっちは、どこでも行く。
つくづく、「本当のところ、どうなの」という、質問の立て方や聞き方が達者なのだと思う。
作中で出てくる企画が、のちに製品化したりすることも多い。描かれる業界の未来予測と、現在をひきくらべながら読む、近未来小説を今になって読むような楽しさもある。
「ゆとり」のはしり、みたいな漫画もあればメイド喫茶意になる前のイメクラも出てくる。
2巻の【艶笑百景】は、ジャンルをまとめてしまったせいで、少しくどいかもしれない。

桜玉吉は奥村編集長をもっと威圧的に描いているな、と印象のちがいを思いながら読むのも楽しい。

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意味と言葉と音と『タモリ』『タモリ2』

タモリ タモリ2

『タモリ』『タモリ2』(Sony Music Direct/タモリ)

仮にタモリ自身が、眼帯時代のことにあんまりふれられたくないのなら、タモリの眼が黒いうちにはCD再発は無理かなと諦めかけていたら、2007年末に再発された。
『タモリ』『タモリ2』『ラジカル・ヒステリー・ツアー』の3枚。『タモリ3』は無かった。

「ひとつひとつは意味がなさないことを言っているのに、通しで聴くと、ちゃんと意味が通じる」のが、ハナモゲラ芸で、さながら深夜ラジオの趣。
BGMとし聴いていると、ときどき唐突に「豆腐屋!」などと意味のある単語が切り離されて、耳に入ってくるのが面白い。まったく意味のないことばかり言っているわけでもないのが、よけいにおかしい。

あのねのねの「フランス語講座」、スネークマンショーと通じるところがある。
「第一回テーブル・ゲーム世界選手権大会 於 青森」(四ヶ国語麻雀)「ソバヤ」がハイライトか。「教養講座 "日本ジャズ界の変還"」で「Work Song」の音を上げて民謡にしてみせるところもいい。ああ、FENもいい。

ソバヤは小さい頃に聴いた記憶があった。どこで聴いたものかは覚えていない。

『タモリ2』は、2007年末、再発3枚組のうち1枚。
iTunesのジャンルが「Books&Spoken」というのは、他になにが分類されているのだろう。

「恐怖の密室芸人」という冠だけ聞きかじっていて、いわれは知らないままにしていた。京都三条の十字屋では、再発にあわせて、タモリのデビュー経緯を漫画にしたもののコピーが貼ってあった。
山下洋輔トリオが旅行中、ホテルで一息ついたのちに音楽をやりはじめる。同宿だった車のセールスマンが乱入してきて、何かと思いや、それらしく聴こえるでたらめな発音で、恐ろしいことにどんな曲にもついてくる。
それがのちのタモリだという、出典は見落とした。

「音楽の変遷」「ハナモコシのシェネ地中海風」落語「めけせけ」がいい。
今なら、youtubeで『タモリ3』の「戦後日本歌謡史」が見られる。

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歌い手としての森田一義『ラジカル・ヒステリー・ツアー』

ラジカル・ヒステリー・ツアー

『ラジカル・ヒステリー・ツアー』(Sony Music Direct/タモリ)

いつだったかのMステーションで、雛壇にたくさんの歌手が座り、順ぐりに思い入れのある曲や人を述べていく。

平井賢が「今から見たら引くくらい桑田佳祐のファンで、サザンのバックコーラスで使ってほしくてたまらず、噂を頼りにたどりついた『桑田』という 豪邸の塀の上に、デモテープを置いてきた。今にして思えば別人の家だった可能性が高い」と言ったり、浜崎あゆみがサザンが好きだと言っていたりで、本尊の 桑田佳祐は「狂い咲きフライデイ・ナイト」「クレイジーキャッツ」をあげたのを覚えている。

桑田佳祐が洋楽をカバーすると、もうどうしようもなく「桑田の歌」になるのはわかっていたのだけど、タモリが歌う「狂い咲きフライデイ・ナイト(作詞/作曲 桑田佳祐)」も、やっぱり「桑田の歌」だった。
タモリのハナモゲラと、デビュー当時は非難もされたらしい桑田佳祐の英語発音は、思えばうまがあっておかしくない。

「タモリのワークソング」がいい。

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歌詞と音の按配『HYS』

HYS

『HYS』(コロムビアミュージックエンタテインメント/ヤプーズ)

「好き好き大好き」「Men's JUNAN」、すごく好きだというひとの勧めがあっても、そこまで思い入れは持てなかった。
お勧めの音源にまぎれていた「あたしもうぢき駄目になる」が耳に残っており、時折くりかえし聴く。

聴いているときに、そこまで歌詞の内容は耳に入らず、音の一部として声がある。「なぜこんな者にまで慈悲を」あたりで急に歌詞が耳に入り、陰にこもった独白と声の不釣合いは何事かと思う。
けれど、詞に身を入れて聴いていないときから、泣くに泣けない強がりのような不安定さは、とっくに伝わってきていたのだから、面白い。

「それいけ!ロリータ危機一髪」「あたしもうぢき駄目になる」「赤い花の満開の下」の並びがよい。

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文体の影響はどこまで及ぶか『文体練習』

文体練習

『文体練習』(朝日出版社/レーモン・クノー)

意味まで変わって見える、と驚く本。 なるべく前知識なしで読むほうが、意図がつまびらかになる過程も含めて、面白いと思う。

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理系文系を問わない『理科系の作文技術』

理科系の作文技術 (中公新書 (624))

『理科系の作文技術』(中公新書/木下 是雄)

いつも、これを検索しようとして「理系」「のための」「文章」などと、はずれたキーワードばかり思い出しては、ひっかからない。思い込みよりも、題はシンプルだ。

読まれない論文など、ないと一緒だとする著者の意見と、自分が思う、文体についての考えは重なるところがある。
自分でわかっているかどうかは、さておくとしても、言いたいことを煎じつめれば、ひどく簡潔なことだったりする。
それをいかに相手に到達せしめるかが、ことばであり文体でもあるのだから、あだやおろそかにして良いわけがない。

文に凝ることが、中身のないこととイコールにはならない。
アイディアはいいのに、見せ方がよくない、と評される事柄などありふれているのだし、頭のなかにある思いつきは、頭のなかにある思いつきでしかない。

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恋愛のあけすけさとロマンスのありか『ロマンスの王国』

ロマンスの王国 1 (1) (ぶーけコミックスワイド版) ロマンスの王国 2 (2) (ぶーけコミックスワイド版) ロマンスの王国 3 (3) (ぶーけコミックスワイド版)

ロマンスの王国 4 (4) (ぶーけコミックスワイド版) ロマンスの王国 5 (5) (ぶーけコミックスワイド版) ロマンスの王国 6 (6)

『ロマンスの王国』(集英社/松苗あけみ)

このシリーズは、一冊につき長編一話or中編二話で構成。どちらにせよ、一冊完結で読める。

1巻に収録されているのは、今で言えばツンデレの話で、男性不信にかられた美少女と結婚した男性の長編。

美しく細い線で描き込まれたなかに、自然にベッドシーンが差し挟まれるのを見ると、読みなれない頃は違和感があった。おそらく、「こうした描線で描かれる少女漫画では、もう少しぼかした表現が使われるもの」と思い込みがあったのだと思う。
そうした場面を正面きって描いていながら、それでも、あけすけなレディースコミック、とはならない。
それなりに歳をくった人も多く出てくるのだけれど、みんな目先の恋愛感情に振り回されて馬ッ鹿みたい、でもなりふり構わなさがチャーミング、そんな話ばかり。

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アウトサイダーの心中から見た女子高『笑う大天使』

笑う大天使(ミカエル) (第1巻) (白泉社文庫)

『笑う大天使』(白泉社/川原泉)

うっかり何かのはずみで、お嬢様女子高に入学してしまった、異端三人組が主人公。

彼女らは本来の学生たちからは、おおきく外れた者だと悟られまいと、何枚も猫をかぶる。
三者三様に人気者になるのは、かぶりきれない猫から窺えるところが、いい意味での差、個性になってしまっているのが皮肉なところ。
お嬢様たちは、異端の三人を「自分たちには無いものを持っている」とあこがれる。

昼飯いっしょに食ってる女子たちは、内心なにを考えているのかとか、和を尊ぶことの難儀さであるとか、猫をかぶることは果たして偽善なのかとか、女子のアウトサイダーはどんなものかとか。
過剰に深刻ぶったところはないので、おもしろおかしく読める冒険活劇。

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いつしか定義がずれる『悪人』

悪人

『悪人』(朝日新聞出版局/吉田修一)

章立てのみ見ると、犯人当てのミステリかと思いかけるが、殺人の実行犯はすぐ割れるので、主眼はそこではないと知れる。

「悪人」「悪意」は、果たして殺人に至るものに限られるか。そねみ、ねたみ、さげすみ、登場人物のネガティブな感情が描かれるうち、「悪意」の定義はぶれる。
ひと一人に対して、誰かが点をからくつけている一方で 、誰かは甘くつけている。

最終章「私が会った悪人」では、「私」は誰をさすか、「悪人」はどちらかなのかで引っ張る。
始まりで善悪を決めてかかっていればいるほど、「悪人」の意味が変わってしまっていることに驚く。

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2008年8月23日 (土)

ひとつの手錠でつながれた『手錠のままの脱獄』

手錠のままの脱獄

『手錠のままの脱獄』(監督:スタンリー・クレイマー,出演:シドニー・ポワチエ、トニー・カーティス)

『夜の大捜査線』で、白人がいかにも悪どく描かれているのをみると、おしまいにさしかかる頃には変節していることだろうと予測するのは、避けられない。
見過ごせばいいくらいのものを、虐げるもの虐げられるもの、の対立あきらかなところに、善悪が重ねられるのを見るのは、わりきれないところがある。
作られた当時は知らず、古典になったときから模倣が繰り返され、時代がくだった今になって見れば、オリジナルが陳腐にも見えてしまうのは、皮肉なことだ。

タイトルどおり、手錠のままの脱獄(不慮の脱走)の途上で、黒人と白人は罵りあう。手錠ごと、憎い相手がいなくなってしまえばどんなに楽か。おいそれと寛大にはなれない。
「ここではないどこか」を願う女が大きなファクターとなっているのは、邦画『ゆれる』と重なるところがある。

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ゆれる

『ゆれる』(監督:西川美和、出演:オダギリジョー、香川照之)
ガソリンスタンドの女の部屋に、弟があがりこむ。 女は、都会っぽさを備えた男に、諸々のあこがれや不満やらを込めた、重たい感情を向ける。 そのうとましさを、視線の運びで見せている場面が印象ぶかい。

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過激な道徳授業『チョコレート工場の秘密』

チョコレート工場の秘密 (てのり文庫 (566C008)) チャーリーとチョコレート工場 チョコレート工場の秘密—ロアルド・ダールコレクション (2)

左端『チャーリーとチョコレート工場』(評論社/ロアルド・ダール,訳:田村隆一)絶版

かつて『ちびくろサンボ』が本屋からなくなったときがあり、なんでこれは見逃されたんだろう、と思っていた。
『チャーリーとチョコレート工場』で映画化すると聞いて、いま買わないと、手に入らなくなると確信して、手許に置いた。案の定、映画公開と時期を同じくして「新訳」しか普及しなくなった。
作中に出てくる小人は、ちがう民族のことで、彼らを大陸からチョコレートで釣って、船に乗せてきたんだ。かわいそうに、彼らは虫と土しか食べてなかったものだから大喜びだよ!と自慢するワンカさんの部分は、新訳ではぼかされている。

『マチルダは小さな大天才』では、学校の拷問用具に鉄の処女が出てくるし、『いじわる夫婦が消えちゃった!』では、きらわれものの客に出す料理に「ドレッシングだ」と言ってつばを吐きかけるボウイのシーンであるとか、好き好きが分かれるだろう作風ではある。
『来訪者』が特別趣味がわるく、『あなたに似た人』『キス・キス』(すべて早川書房)は、趣味の悪さがうまくまぎれている。

女性をきらう作家、という気がしている。

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ポッキーをプリッツにしたくなる子供へ『かいけつゾロリのチョコレートじょう』

かいけつゾロリのチョコレートじょう (ポプラ社の新・小さな童話)

『かいけつゾロリのチョコレートじょう』(ポプラ社/原 ゆたか)

チョコレートで「あたり」が出れば豪華商品が、というプロモーションが行われる。

根がいじましいゾロリは、三層になったスペシャルチョコレートにかじりつくことが惜しく、なめて一層ずつ食べようとすると、真ん中の層に「あたり」の文字がみつかった。
じつは、市場に出回る全部の製品に「あたり」は仕込まれていた。「誰もそんな食べ方はしないだろうから、うそはついていないながらも、あたりは出ない。見破られないかぎり、チョコは売れ続ける」という、メーカー側の思惑がはずれるのが、痛快。

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食べることの功『ダイエット』

ダイエット (あすかコミックス)

『ダイエット』(角川あすかコミックス/大島弓子)

なにかする気がおこらなくても、食べることくらいはできる時はあるもので、顎を動かしている間には、果たして何も考えていないだろうか。むしろ、あれやこれやを思い出しては、数にまぎれさせることで気にならなくしているのかも知れない。
遠い目標をたてる気になどなれないから、目の前の袋をあけることを目標にたてて、からにすることで少々の満足は得られる。
作業になってしまっているとはいえ、ものを食べる効用のひとつでもある。

やせても太っても態度が変わらなかった、親友の彼氏は、本当の自分を見てくれているのではないか。シメナワフクコは、やせたり太ったりを繰り返すことで、予測を確かめようとする。どこに変わらない自分があるのかがわからないから、彼を通して確認したい。

生まれ直して初めて食べるものが、おいしいと思えて本当によかった。

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今は、白泉社漫画文庫のどれかに収録されていると思います。

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つくりものじゃないもの探し『ヘルタースケルター』

ヘルタースケルター (Feelコミックス)

『ヘルタースケルター』(祥伝社/岡崎京子)

人から見られる自分と、いま、なにかしている自分はまったくぶれなく重なるかといえば、とてもそうは思えない。
きちんと自分が作った、本当のものはそれではない。
人が抱くイメージ、印象、思い込みを売り物にしながらも、納得できないからぶち壊したい。

そんな折、つきあっていた恋人の結婚は、本人の口を通じて知らされるより先に、ニュースで知る。
結婚相手の所属、肩書き、氏素性が並べられ、自分にあれこれインデックスをつけられるのが我慢ならないタイガー・リリィは、こぎれいなインデックスに敗北する。
人から見られる自分以外に、なにかあるだろうか、と思い続けるのを、愚かしいとは言えない。

ドーナツを食べてしまったら、何も残らないのではなく、ドーナツの穴が残りました、というような終幕。
からくも希望はある。

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痩せたいにも理由がある『脂肪と言う名の服を着て』

脂肪と言う名の服を着て 完全版

『脂肪と言う名の服を着て』(祥伝社/安野 モヨコ)

なんで女の子はトイレに連れだって行くの、と訊かれたら
荷物番をしている子の悪口を、鏡の前でしゃべることに慣れすぎているから、と答えたくなるときがあるかもしれない。
自分がいつもしていることは、なにより身に迫って考えられる。目のとどくところにいるなら、何か言われてもたちむかえる。

たぶん『脂肪という名の服を着て』not完全版が出た後になると思うのだけれど、安野モヨコは、『美人画報』というエッセイ漫画を描く。
美容や化粧への情熱をかたむけたルポを重ねて、本当に綺麗になりました、と顔出しした以降、ずいぶん非難されたらしい経緯が、悪意と猜疑の話に重なって見える。

小野不由美が、作品以外であれこれ言われたくない、と頑として顔を出さないのは利口に思える。
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読んだことがあるのは完全版じゃなかったので、結末がどう変わっているのかは知らない。

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すべりおちていく日常『レクイエム・フォー・ドリーム』

レクイエム・フォー・ドリーム デラックス版

『レクイエム・フォー・ドリーム』(ジェネオン エンタテインメント/監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ジャレッド・レト)

テレビの前に陣取るのが日課、おばあちゃんのエピソードをよく覚えている。

おばあちゃんは、やせてきれいになったら、ひがな一日ながめるTV番組の陽気な司会者が、諸手をあげてむかえてくれると思っている。

やせたら、日向ぼっこの同輩も気づいてくれるほど、違いは傍目にもあきらか。

誰が彼女を責められようか。

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とりまく家族におかしなところはない『クラム』

クラム

『クラム』(パイオニアLD/テリー・ツワイゴフ)

ロバート・クラムをこの映画で知る。
ジャニスのジャケットで見かけていたことは、あとから気がついた。
ロバート・クラムは、近しい家族の中にも横たわる、性的なインモラルにこだわったフランス漫画家で、こちらはドキュメンタリーになる。

いやでしかたなくい、嫌いだからこそ見てしまう、気にしすぎるのはいっそ好きなのではないか。
描く漫画描く漫画、巨大な臀部をもつ女性ばかり出てくる。あちらこちらがゆがんで過剰なのは近くで見過ぎだからで、もうすこし離れて見れば粗も目だたなかろうに、とも思わせる。

ロアルド・ダールとか楳図かずおと少し近いような気がしているけれど、ちがうかもしれない。

もう一回観たいと思っている。

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見えるものを描く『ベルヴィル・ランデブー』

ベルヴィル・ランデブー

『ベルヴィル・ランデブー』(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント/監督:シルヴァン・ショメ)

極端にデフォルメされた絵を見るたびに、日本人の絵じゃないなぁ、と思う。
彫が深いのがいいと言ってはみても、実際、顔の真ん中に峡谷が影を落とすのを見ると、おどろくものだし、目に写らないものを、まねてみようとするのも難しい。

孫を囲い込んでいるようにも見える、おばあちゃん。
孫は自転車を買ってもらったとき以外は、楽しそうな顔をしない。

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うちにかえろう『MOTHER2』

MOTHER2 ギーグの逆襲

『MOTHER2』(スーパーファミコン/任天堂)

既に出ているRPGをやりこんだ人が、ここがこうだったらもっといいのに、と思ったところを詰めこんだような感じがある。
とにかく、街などにいるキャラクターの会話が豊富。
イベント後に、市井の人のせりふがしっかり変わる。

イベントの際に「なにかの選択を迫られていても、正解はひとつ」ということは、よくある。
たとえば「これを引き受けますか?」「いいえ」「何で引き受けないんだ。引き受けますか?」と言われると、質問を設ける意味がないじゃないか、と思う。
ストーリーの進行の上では、仕方がないのだとしても。
『MOTHER』は失敗選択肢を選んでも、即「はずれでした」と返すのではなく「やってみましょう・・・失敗しました。他のやり方はありませんか?」というアプローチをする。
一本道にはちがいないのだけど、気安く楽しめるつくりになっている。

自分の好物は「ぶたのかくに」にした。

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物語は思い入れに左右される『ロマンシング サ・ガ』

ロマンシング サ・ガ

『ロマンシング サ・ガ』(スーパーファミコン/スクウェア)

ほとんどヒントはない。どこに行くにも自由。何をするのも自由。

ひとつの選択肢がのちのちまで影響を及ぼすので、気がぬけなく、他愛のなさそうに見える質問にもいちいち考え込んだりする。
「はい」「いいえ」でストーリーがたちゆかなくなるなら、リセットしてやり直すのも自由なのだけれど、どちらを選んでも支障なく進むのだから、「正解」はない。

ただ、ふらふらしている間にも時間は進んでいるので、うっかりしていると、主要なイベントも容赦なく見逃す。
きっと、まだ見ぬイベントがある。

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うっかりすると道に迷う『ドラゴンクエスト』

ドラゴンクエスト

『ドラゴンクエストⅠ』(ファミリーコンピュータ/エニックス)

「世界の半分をやる」
 はい
 いいえ

一本道のRPGと揶揄されるゲームシリーズだけど、今思えばわりとヒントは少なかったし、むりして山を踏破にかかるのもあり。
はじめの城から、最後のダンジョンが見えていたり、竜王の質問の分岐がよかった。
とはいえ、途中でスタッフの名前を使った「ふっかつのじゅもん」でクリアに至り、未だ高価値を保つうちに、他のソフト複数本と交換で貸し出してしまったので、よくおぼえていない面もある。

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「バランスがとれた理不尽」が最高『風来のシレン』

不思議のダンジョン2 風来のシレン

『不思議のダンジョン2 風来のシレン』(スーパーファミコン/チュンソフト)

とにかくゲームオーバーになるゲーム。
戦闘によるレベルアップ要素はあるけれど、今回の冒険は次回、続きをやるときにしか使われない(失敗したから前のセーブデータに戻る、ということができない)。
進むダンジョンは、自動生成で毎回ちがい、出てくるアイテムやモンスターも運任せの、一期一会なゲーム。

ダンジョンの中を進むとき、何をするにもターンを消費する。自分が一歩歩くと、敵も一歩歩く。立ち止まって回復している間にも、敵は近づいてくる。
差し迫ったピンチのときにも、手持ちのアイテムでなんとか逃げられるときもある。アイテムの使用方法はわりと自由で、「所持していさえすれば、死んでも復活できる」宝のようなアイテムを、食べることで空腹度をいくらか満たすこともできる。(空腹度がゼロで死亡)
最高に鍛えた武器を、投げてぶつけることもできる。
自由にまかされたことは、逆に、「こんらん」などでプレイヤーの制御がきかなくなったとき、本当に何が起こるかわからないことでもある。

ダンジョンのあちこちに張られた罠はさまざまで、「石」につまずいて荷物を散らばし、あわてて拾う最中に「地雷」を踏んで荷物を吹き飛ばしたりすると、無常感がある。
いちおう、剣をふるアクションを行えば、一歩先の罠は発見できるしかけになっているので、自分を責める他ない。失敗を繰り返しては、あの時こうしていれば、と強く悔やむ繰り返しで、いろいろな状況に適応できるようになる。

「千回遊べる」が売り文句だったけれど、確か、そのくらいは遊んだ。
(5分でゲームオーバーでも、1回として数える)

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だめ、と言われると覗きたくなる心理をつく『世界樹の迷宮』

世界樹の迷宮II 諸王の聖杯(特典無し)


『世界樹の迷宮2』(アトラス)

「君たちは先に進むこともできるし、このまま引き返してもよい」

必ずしもプラスには働かない、分岐する選択肢が頻繁にあらわれる。
「選ばないのも自由だ」と言われると選びたくなり、自分で選んだのだという満足もあるのが、うまい。

DSの二画面の上部では3Dダンジョンを歩き、下部では俯瞰視線でダンジョンのマッピングを、タッチペンで行う。下ばかり見ていると、ばったり強敵とぶっつかるようにもなっている。
一歩歩くのも1ターン、何か行動するのも1ターン、のターン制とはいえ、メニュー画面を開けば、そこからの行動にターンは消費しないので安心できる。

登場人物のせりふ、西洋ファンタジー風の職業、パラメータを自分で割り振っていくところはテーブルトークRPGのように思える。そういえば、「真 ん中に仕切りをたてて、相手の布陣を知らないままに駒を進めるテーブルボードゲーム(不確定要素にあたるたびに、相手の申告をもとに手許でマッピングして いく)」もあったなあ、と懐かしい。

RPGは始まりこそ緊張感があっても、徐々に緊張感が目減りしていくのは、自分のレベル上昇と出会う敵の強さのバランスもあれば、かつかつの財布と買えない装備のうらめしさもある。そうした数値1ポイントの重みを、つくる側は重視しているのだと思う。
一定程度レベルがあがった今(平均Lv20)でも、経済状況は予断を許さない。下手すると宿屋からも門前払いをくらう。とかくだぶついては、ありがたみがなくなりがちな金を引き締めにかかっている。

レベル上げの必要があるので、どうしても「作業」の要素はあるけれど、キャラクターを育てることに愛着があるなら楽しめる。
今のところはおまけに思えるストーリーが、どこまで広がるのかはわからない。
(2008.3.1)
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まだクリアしていない。

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背景からていねいに『「映画の見方」がわかる本』

〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀 (映画秘宝コレクション) ロジャー・ラビット

『「映画の見方」がわかる本 80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』(洋泉社/町山 智浩)

かつて『プレミア日本版』という映画雑誌では、往年の名作映画をとりあげ、当時の製作風景、関係者の証言や時代背景などをとりあげる特集記事があり、おもしろく読んでいた。おぼえているかぎりでは、『悪魔のいけにえ』『地獄の黙示録』などがあったように思う。
時代の何たるかは、人になにがしかの影響は及ぼしているに違いなく、むかし熱狂的に受け入れられたものが、いままったく同じに受け入れられるものではないだろう。
本当によいものは時代にかかわりなく、真理をつくものだとしても、めぐる運というのも無視すべきでない。

いま、そこにある映画を、つかまえることができたら幸せだけれど、既に名がとおった映画も、ふりかえってみれば山ほどある。徒手空拳でそれらにのぞみ、すべてがわかった気になるのも傲慢で、むしろ、わからないところがあるのが当たり前ではないか。

章ごとに、監督ひとりを取り上げて、年を追って映画がつくられた背景を埋めていく。
第2章「ジョー・ダンテ」では、ダンテがディズニー・アニメよりも断然ワーナー・アニメ派だったことが、『グレムリン2』で『グレムリン』をパロディにして笑いのめした、おおもとがあるとして話をすすめる。
バッグス・バニーやロードランナーは、自分たちが「お話」の主人公だということを自覚している。観客にも常に、観ているお前は何者だ、どこまでが「お話」だ、と問う。
ワーナー・アニメが大好きで、その筋をよくつかんでいたダンテが『ロジャー・ラビット』を撮れなかったなんて、残念きわまる。アニメに何ら思い入れのないゼメキスは『ロジャー・ラビット』をつまらない映画にしてしまった、と作者は嘆いている。

周辺状況から、映画を読んでいくところが強いので、好き好きはあると思うけれど、なにもこれひとつが正解ではない。
読むものは、この見方を受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。

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『〈映画の見方〉がわかる本』の二作目。
前作に比べると、作者が好きなものを趣味で選んだ作品だろう、という感じがする。

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2008年8月22日 (金)

スクリーンをはるかにはみだす『夢想の研究』

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)

『夢想の研究』(創元ライブラリ/瀬戸川猛資)

同じ作者の『夜明けの睡魔』(創元ライブラリ)もよいけれど、どちらか無理にでも選ぶとするなら、こっちがいい。
おおまかに言うと『夜明けの睡魔』は推理小説に関する評論で、こちらは映画にかかわるもの。

むかしの映画も、封切りも、こだわりなくとりあげる。文学も、詩も、学問も(推理小説も)顔を出す。
とりとめなく思えるくらい、あちらこちらに材がとられているのに、なにかの部分のみを引き写したような感じはまったくない。

たとえば「センス・オブ・ワンダー」(p.89)では、映画『メトロポリス』をとりあげ、ふたつに割れた評価をくらべてみる。H.G.ウエルズが 口をきわめて酷評をくだしたのはなぜか。彼の想像力に、予算も人にも制約を受ける、映画がかなうわけがない。いやしくもSFファンなら
SF映画に恐れ入ってはいけなく、一定の距離を保つべきである、と説く。

『ブレード・ランナー』程度の都市イメージに驚嘆してはならない。『エイリアン』程度のサスペンスにショックを受けてはならない。『2001年宇 宙の旅』の思わせぶりな哲学趣味にだって、過剰に淫してはならない。そういうことは、SFを読んだことのない人たちや空想の翼を広げたことのない人に任せ ておけばいいのである。
(p.96)

書き方おだやかにせよ、つまらないものはつまらない、とはっきり書く。そのぶん「監督で作品を観る」ことはあまりなく、なるべく無心に観るようにしている、という。

『ロジャー・ラビット』(監督:ロバート・ゼメキス)がどういう作品で、なにがすごいのか、と熱をこめて書かれる章「からくり兎」は、製作者がなにをねらって作ったのかがわかった驚きとうれしさに満ちており、特に印象ぶかい。

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悪役の目からのぞく映画界『星を喰った男』

星を喰った男―名脇役・潮健児が語る昭和映画史 (ハヤカワ文庫JA)

『星を喰った男』(ハヤカワ文庫/唐沢 俊一, 潮 健児)

「地獄大使」役に思い入れがあれば、よりいっそう楽しめるのだろうけれど、なくても楽しめる。
この本が書かれる経緯は『能天気教養図鑑』(幻冬社文庫/唐沢商会)で見た。

マキノ雅弘から始まる監督の話、同時代の俳優の話、楽屋裏の話をいま見てきたように話すのを読むのは、年表の項目に肉付けがされるようで、点でしか知らないことを知らされる。

タイトルが良い。
本棚では、三木のり平の横を占めている。

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京都が映画村だった頃『のり平のパーッといきましょう』

のり平のパーッといきましょう (小学館文庫)


『のり平のパーッといきましょう』(小学館文庫/三木 のり平, 小田 豊二)

ドリフターズを見ながら、笑っていながらでも、親が時々真顔になる。クレイジーキャッツのパロディなんだよねぇ、で、こっちの方がずっと品がないんだよねぇ、と言ったものだった。
テレビで放映されたものの録画がのこらない時代のものだから、聞くだにうらやましさをおぼえた。

そういう時代の話。「三木のり平といったら『ごはんですよ』」くらいの前知識でも、映画史と昭和史を兼ねたものとして、おもしろい。聞き書きそのままの文はつっかかるけれど。

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景気づけになる『不肖・宮嶋 南極観測隊ニ同行ス』

不肖・宮嶋南極観測隊ニ同行ス (新潮文庫)

『不肖・宮嶋南極観測隊ニ同行ス』(新潮文庫/宮嶋 茂樹, 勝谷 誠彦)

玄米を食べつけていると、白米以外の米をまずいと言うやつの気がしれねえなあ、などとうそぶく気にもなるが、久方ぶりに白い飯を炊くと、うまさが段違いにちがう。白米ばっかし食べて脚気になっては困る。と懸念していると、いまどきなるか、とあきれられる。
いや、ちょっと前まで、冬の東北などでは、日光が足らないわフレッシュな野菜や果物がないわで、罹患もあったとか聞くじゃないか。それはくる病だと質される。

基地に近づくにつれ、幸せの程度が段階をふんで変化していく。行って戻ったあとでは、不肖は地面の黒ささえ愛しくなっている。
純白にとりまかれたドーム基地では、ほそぼそとカイワレが栽培されていた。

南極と聞いたら、ちらりとでも「南極2号」が浮かぶような人は、きっと楽しい。
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次に『不肖・宮嶋青春記』(ワック/宮嶋 茂樹)を読んだら、粗にして野なところがそのままで、あらっぽさが鼻についた。素材はつまらなくないはずなのに。
これは勝谷誠彦の取捨選択がうまいのだろう。
現地から膨大に送られてくる生原稿をリライトする苦労があとがきで書かれており、編集するとは捨てることなのだな、と思い至る。

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信頼をよせる根拠をあらためてみる『知の欺瞞』

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用

『知の欺瞞 ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波書店/アラン・ソーカル, ジャン・ブリクモン, 田崎 晴明, 大野 克嗣, 堀 茂樹)

いろいろな人が、実験や検証をくりかえした後に、意味がぶれないように定義した言葉を、印象で使いまわすことには何か特別な意図があるのか。何もないと思う。として、哲学分野で使われている、自然科学の用語・概念について、検証したもの。
パロディ論文をでっちあげて、専門誌に採用されてしまった事件の顛末。巻末付録に論文掲載あり。
ポストモダンがいったい何なのかを一口で言えない以上、一概に批判には乗れないが、おもしろい。

「はじめに」では「本書の使用上の注意」として、「ポストモダン思想そのもの」を非難するわけではなく「○○という学者の××という論文の、ここ からここまでの文脈において、この用語・概念が使われる意味がわからないだけだ」と、ごくごく範囲を限定していることを、強調している。

とはいえ、「エピローグ」では、ポストモダンという思想は、意義があったにせよ既に役割を果たし、乗り越えられるべきジャンルになりさがったのではないか。と、全体に対する批判がされている。

読む側に、テキスト外のことを思い起こさせるのは、一度めだと有効に働くけれど、二回も三回もやると面白くないと思っている。

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京都をなつかしむ『京味深々』

ラーメン屋で、食べる順を指定されるとムッとしてしまう。
備え付けの生姜入れに「まずはスープを味わってから入れてください」と断り書きがあるようなとき、何をちょこざいな、と思う。
ラーメンに胡椒を入れると味が変わっちまうじゃないか、と聞くと、こちとら薬味ごときでもとの味を見失うほど味音痴じゃないんだ、見くびるない、と返したくなる。
やれやれだよジョニー、とでも言いたげに肩をすくめられるのが知れてはいても。どうも短気でいけない。

茗荷は物忘れを恐れずに、酢で漬けて食べるほど好きだし、ネギやにんにくは常に山ほど入れる。七味一味からしにわさびも、けっこう入れる。
京都は大宮にある坦々麺専門店「坦々」で、にんにく入りXO醤・粉唐辛子・コチュジャンみっつを迷わず入れたら、それは「どれか」を入れるものでは?と連れにあやしまれた。いいんだ、全部入れても。どれかひとつ、なんて選べないもの。

味覚は、幼い頃につくられてしまうものなのだろうと思う。
薬味が大好きであっても、家が(母が)薄味好きのせいか、どうやっても濃い味付けにできない。
西に住んではいても、トコロテンは「からし酢醤油」味で食べるべきであって、断じて黒蜜ではない。トコロテンは「おやつ」ではなく、もずくのように「酢の物」の仲間としか思えない。

らちもなく、京都のことを書いているのは『京味深々 京都人だけが食べている(2)』(入江敦彦・光文社知恵の森文庫)を読んでいたから。
少し、店のこともつけ加えておこうと思う。

◆雅(みやび) 今出川通千本東入
夫婦がやっている蕎麦屋さん。「鬼そば(温)」を注文すると、三々九度の杯のような、朱塗りの杯に蕎麦が盛られて出てくる。蕎麦の色は黒め。「定食」にすると、かやくごはんと小鉢と漬物がついてくる。
一品も多くあり、酒も呑める。

◆洋食 ふるふる 千本今出川下ル西側
添えてあるキャベツがふわふわしていて、得がたい。空気を含んでいるように、盛られている。
二品選べる、セットメニューではハンバーグ+クリームコロッケをしょっちゅう頼んでいた。ハンバーグはジューシーであるし、メニューも手堅く豊富 で、千円前後。客層は広く、カップルから親子連れまで。白梅町にある洋食屋「いただき」とは浅からぬ縁らしいけれど、こちらの方が好み。
(2006.11.12)

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京味深々 京都人だけが食べている2 (知恵の森文庫) 『京味深々 京都人だけが食べている(2)』(知恵の森文庫/入江敦彦)

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枠を持ち込む考え方『野生の思考』

野生の思考

『野生の思考』(みすず書房/レヴィ・ストロース)

もともと、人類学に対する興味があった。
何で「構造主義」でくくられる、他の論者とレヴィ・ストロースにはへだたりがあるように思えるのか。
日々、システムがどうのこうの、構造的にどうのこうの、という「構造」「システム」は、どういう意味を持たせたくて使っているのか。
確かめたくて、読んでみたのは去年。
読み終わった直後には、現代からみれば、なにも特別なことは言っていないことがわかった、と思ったはずが、まだはっきりわかっていない。

自分の理解している論理とは、まったく別の論理でできあがったものを、こちらのやり方で批判することは、フェアじゃありません、ということだったか。
この考え方が、他のポストモダンの考え方に行き着くには、つながりは無いとは言えないけれど、飛躍があるようで、妙な気がしている。別物とすら思える。

時代背景や、モースの贈与論など、一回くらい聞いたことがないと、読み通すのはつらいと思う。

サルトルなどは全然知らないので、また他をあたってから読み直そうと思っている。

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エリート主義を笑ってみせる『耳そぎ饅頭』

耳そぎ饅頭 (講談社文庫)


『耳そぎ饅頭』(講談社文庫/町田康)

身の周り雑記不服まじり、と片付けられないのは、偏屈者があがくところ。読み返してみると、案外、そんな話一色でもなかったが、どのエッセイ集がこのテーマだったか、しょっちゅう忘れるので、備えで書いておく。

町田康が、芸人としてうだつのあがらぬ原因に、はたと思い至る。大向こう受けするものの面白さがわからんければ、大向こうに受けるわけがない。
しからば、みなが親しむものに我も親しまん、と出かけていっては、しごく感銘を受け、滂沱と涙する。説教がましくないのがよい。あとがきから窺えはするものの、本人の意図が果たして、という真偽をさだめない。一連の、褒め倒すパターンができあがっている。

売れ線、などと鼻で笑って、数をたのみにしたものを馬鹿にしたことがあるのなら、おおよそ他人事ではないように思う。

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ひろく受け入れられることのジレンマ『美味礼賛』

美味礼讃 (文春文庫) フランス料理を築いた人びと (中公文庫BIBLIO)

『美味礼賛』(文春文庫/海老沢泰久)

ほんの少しだけ、調理師専門学校の内側をのぞく機会があった。
掲示板に貼り出された「締切り迫る!免許を取りたい者は忘れずに」といった、ふぐの告知もあれば、時間割で「店舗経営」「原価計算」といった、算盤にかかわる授業課目がまじっている。
おりしも卒業制作を間近に控えた職員室では、生徒が指導をあおいでいる。卒業制作は、前菜からデザートまでをあつらえる、共通課題のようだった。
かさむ費用を抑えるために、ここの食材を、たとえば「とんぶり」に換えてみろ。「畑のキャビア」ともいう。聞いたことがあるか。
卒業をひかえて休みがちな生徒に電話をかけてなだめたりすかしたりする声、就職率を維持するための数値目標をかかげる朝礼と、あわせて記憶にのこっている。

辻静雄には、はじめに就職口をえらぶときから、ずっと迷いがみられた。
のちに、会食にまねいた新聞記者から、こんなにも豪勢な食事をふるまうのは、一食いくらかで済ませて不満のない者をこけにしているのか、となじられる。
一人前30万円からかけられた料理は、気心がしれた相手に、ただ、味のみを伝えんとしたのが、裏目にでた。返す言葉に詰まる。
のちに、フランス料理を看板にする教授に、三ツ星レストランの名前を次々にあげて気分を害された。駅のスタンドや大衆食堂で、知ったふりをされたくもないと、いくらかきっぱりと、相手をしりぞけるところがある。
なぜ、あつかいが違うかについて、文中で特に説明はない。

美食には、つくるにも食べるにも金がかからざるをえない。
手がかけられ、材料も吟味されたものと、経費を安くでおさえたものとは自ずから違う。良い、悪いの価値がからむことは、避けられない。それを区別しないことは、むしろ失礼でしかない。
食事そのものと、食べる者の人品とは、切り離してよいのではないか。良いワインを飲んでも、人として価値が高くなるわけはない。
けれど、相手がせっかく凝ってくれた趣向を見ぬけるだけの眼は、受け手にもあってよい。もちろん受け手に頼らず、口添えしなくてもよいほど、雄弁な料理をつくるだけの腕は、あるのが良い。
両方あってこそだと決め、教え教わることに熱心になったのち、美食で肝臓をわるくした。

辻静雄は、いずれ美丈夫でもあるのだろう。海外の料理研究家にファンレターを送るにとどまらず、海を渡って教えを乞うた熱心さだけでなく、相手がすすんで教えたく思ったのは、見た目の影響があっておかしくない、写真など見ないままに思っていた。
海老沢泰久は、容姿についてなにも書いていない。
ひとつに絞りえないとはいえ、他人の目からみれば、なにかと原因は求められるものだ。書かないつもりで、「教わるものは謙虚であれ」「見てくれも好感度には幸いする」などと言ってしまえば、ありきたりな話におちてしまう。
文章は明快で、省略することが多いぶん、読む者しだいで、何に注目して読むかが変わることと思う。

図書館から借りたものだから、手元に本がないのだけれど、2007年に読んだもののうちで一番おもしろかった。

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『フランス料理を築いた人々』(中公文庫BIBLIO/辻静雄)

『美味礼賛』の副読本として、面白く読めた。

料理人と客との関係はどんなものか。料理長兼主人と、親しければ親しいほど、手ずから料理をつくってもらっているように感じるかもしれないが、驕りともいえる。下に何人もしたがえた主人が、原価計算からはじめて采配をふるったものが、その一皿にこめられているかと思うと、「一人の料理人が腕により をかけて供する」こととは、なんと遠いことか。
そうでなければ、本当に味を理解してくれると思える者のみを求め、一握りの富裕の人間の口に入る、豪勢な料理をこころざすことが、果たして、至上の目的となるのだろうか。
(p.47~小題「料理人と客」大意)

辻静雄は、このふたつの間で迷い続けている。

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さかさまな手続き『焼かれる前に語れ』

焼かれる前に語れ

『焼かれる前に語れ』(WAVE出版/岩瀬博太郎, 柳原三佳)

トリカブトを用いた殺人事件を知ったとき、結果としてつきとめたことに感嘆した。
一方で、あと一歩で事件はお蔵入りの芽もあった、犯人は頭が良いと、別の感心もしていた。
現状、何が死因として調べられるリストにあがっているのかについて詳しいほど、犯罪を犯す側はそれを避けるだろうから、現状を明かすのもむずかしい分野なのだろうなと思う。

死因を調べる必要は、凶悪犯罪にかぎると思うのが、そもそも違うのだという。
状況をたよりに冤罪にかけられる怖さもあれば、死因が何かで、おりる保険金もまったく変わってくると聞けば、身近な問題にもなる。

死因を目視で観察して、それを解剖にまわして確認するのは、順序がさかさまではないか、というのには納得。
(2008.2.17)
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この頃、『チーム・バチスタの栄光』(宝島社)を書いた海堂尊が、講談社のPR誌で小説を書いた動機にふれていた。
外科医の人気が「花形」からすべり落ちてしまっていることを嘆き、死因を明らかにする手段を知らしめたくて、小説という手段をとったのだという。
たしか『死因不明社会』(講談社ブルーバックス)の紹介文だった。
PR誌とは入荷時期がずれていたためか、なかなか『死因不明社会』が見当たらないのにじれて、こちらを手にとった。

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出口のないどうどうめぐり『ためらいの倫理学』

ためらいの倫理学―戦争・性・物語 (角川文庫)

『ためらいの倫理学』(角川文庫/内田樹)

はじめて内田樹を読む。

「ネタがないことをネタにするブログやエッセイ」や『うまい文章とはこういうものだ』と述べている文章自体が、もちあげる内容とはぜんぜん違う」のを読むのが、どこか悲しいのは、それを読んだ意味が薄まってしまった気がするせいだろうか。

断片的には頷けるところもあるのに、そうした居心地の悪さがあった。

「『私は賢い』と思い込んでいる奴はバカだ」という命題があるとする。この命題は、経験的にかなり多くの場合に妥当する。その結果、「『私は賢 い』と思い込んでいる奴はバカだ」主義というものが成立したとする。そして、その「バカだ」主義者(めんどくさいから省略するね)が「バカだ主義は卓越し た学知だ」と言い出した場合、周りの人はそれをどういうふうに眺めるだろう、ということである。(p.188より引用)

あまり知られていないことだが、私は「徹底的に知的な人間」である。(ここでいう「知的」というのは、intelligentという意味ではなく、knowledge-orientedという意味だ。)
「徹底的に知的な人間」というのは、自分が「ぜんぜん知的でない人間である」可能性について考えることの方が、「自分が非常に知的であること」を他人にショウ・オフすることよりも好きなタイプの人間のことである。
こういうタイプの人間はレアである。
(p.200より引用)

自分はレアのうちの一人である、と続く。
これでは「『知的であることをショウ・オフしないこと』をショウ・オフすることで、知的であることをショウ・オフする」ことになり、どうにも「それを述べることが『知的か否か』」にとらわれすぎた、どうどうめぐりの自己完結に思える。
内田樹はp.188にもあるとおり、どうどうめぐりになっていることも自覚しているはず。
自覚しているからといって、それがつまるところどうしたというのか。

『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)は読もうと思っていたものの、次々に読もうとまでは思えなかった。単に好みの問題なのかもしれないけれど。

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似ているようで対称的『動物のお医者さん』『Heaven?』

動物のお医者さん (第1巻) (白泉社文庫) Heaven?―ご苦楽レストラン (1) (Big spirits comics special)


『動物のお医者さん』(白泉社/佐々木倫子)

同じ作者の『Heaven?』(小学館)を読んでいたときに、佐々木倫子は「おもしろいキャラクターの役割」ができあがっていて、それにのっとって描いているのかと思い、レストランのオーナーは漆原教授で、伊賀君はハムテルでと思い返しながら当てはめていた。

あらためて、こっちを読み返してみると、ハムテルは思ったよりも平静で、伊賀君と似ていない。伊賀君の方に迷いがみられるのは、なにかと大学受験の失敗にたちもどって考えてしまう癖があるせいかもしれない。
何らかの分岐を、遠くて近い大学受験に求めたがる気持ちはよくわかるし、ハムテルはその意味でも「箱入り」。

メジャーになる前の旭山動物園(たぶん)が出てくる章があったりする。北海道に関する描写は本当だらけだ。

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おもしろい国語の教科書『本を読む本』

本を読む本 (講談社学術文庫)

『本を読む本』(講談社学術文庫/M.J.アドラー, C.V.ドーレン, 外山 滋比古, 槙 未知子)

本の批評は「内容を理解したうえで」「自分の言葉に直して」「どこが」「なぜ」「どうなのか」を書かなければならない、とする本なのだから、レビューを書くのにどうもためらう。

まず、本を読むのは消極的な行動ではない。積極的に学ぼうとするものであるとしたうえで、おしまいに差し掛かって「本当によい本(再読に耐える本)は、一割にも満たない」とする。
結論とみなして先取りするものではない。
この本の構成では、読書にもレベルがあるのだと段階をふんで解説している。あるていど読まないと、価値の分別などつかんよ、と構成が言っている。
批評はけなすばかりが能でない、貶めるのがもてはやされるのは考えものだとある。
ここが気に入らない、とする意見も、その人が発言する数の中にはあって良い。
批評には連続性があり、「Aは気に入るがBは気に入らない、Cはまあまあである」とする、その人柄をこちらが信頼して支持する。Aの価値が高いのだと目立つからではなく、選ぶ基準が見えるからだ。
ひとつの書評などをぱっと見て、面白いこと少ないのは、何を重視して読む人なのか、よく知らないからだ。
知り合いや、見知った書評家なら、仮に自分とは好みが合わなくとも、なぜ相手が面白く思い、自分がそうではないかの検討ができる。
両方あるのは悪いことではないのだ。
ただし、批評として「価値が高い」のではない。
そこを履き違えてはならない、ということかと思う。

文中には、既に自分が実行していたことも出てきたりする。それを見て、自分はこんなに物を考えて行動していただろうか、と思うまもなく、もとより考えた上での実行だったのかもしれない、と自分に感心すらできるのは、まったく教え上手だと思う。

たとえば『本のなかの本』(中公文庫/向井敏・絶版)では、再読に耐える本を取り上げる。読む価値のないものを、わざわざくさすことはしない、とした書評集だった。
たとえばこの書評集に「褒めるばかりが批評ではない」というのは、まっとうな批評ではないだろう。

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ベンチャー社長の一代記『アメリカン・ギャングスター』

アメリカン・ギャングスター

『アメリカン・ギャングスター』(監督:リドリー・スコット)

フランク(デンゼル・ワシントン)は「運び屋」だ。

冒頭部分で、ハーレムを牛耳るボスと、運転手のフランクは、ディスカウントストアを訪れる。
「時代もおしまいだ。卸を抜いて商売をすれば、安くなるのは当たり前。だが、今まで卸を生業にしていた連中はどうなる。たちまち職を失ってしまう」

ボスの後を継いだフランクは、戦争に乗じて、阿片をベトナムから買い付ける。
純度が高いヘロインをお手軽な値段で売ることは結果として、市場に出回る粗悪な既存品を駆逐した。
当然のように、彼は恨まれる。ヤクで商売をしていた、イタリア系のマフィアから「余計なことをするな」「価格協定を受け入れろ」「こちらが流通させるから、お前は卸しに徹しろ」と脅されるが、フランクは良品安価のなにが悪い、とつっぱねる。

イタリア系マフィアは、既に「アメリカに移り住んできて、頼るはファミリーのみのやくざもの」ではない。がっちりした組織ができあがっている。だからこそ、フランクを脅す際にも「どうなっても知らんぞ。下の者が何をやるかまでは責任は持てない」とも言うのだ。
ひるがえって、フランクは組織らしい組織に属さない。(仕入れの際に華僑?に所属を確認されたくらいだ)だからこそ、家族を呼び寄せることで、信頼できる組織をいちからつくろうとした。

だが「人目にたちやすい職業だからこそ、つつましい暮らしを良しとする」フランクの姿勢と、家族の思惑は少しずつずれはじめ、しまいには「おれに話をしたい時には(親族の中でも信頼できる)こいつを通せ!そうでなければ口はきかん!」と、弟たちを恫喝する羽目になる。

家族の流通体制で商売を成り立たせてきたフランクは、司法の手にかかるも、終身刑は免れた。

フランクが恨まれた理由は、さまざまだと刑事(ラッセル・クロウ)は言う。
ヤク中でどうにかなったものの親族はもちろん、お前のヤクのせいで職を失ったものたちがたくさん。
ことに、商売を棒にふったイタリア系マフィアはみな、お前のことを恨んでいるよ。

ここに至り、この映画は、ボスの発言に始まり、ボスの発言に終わることがわかる。
卸を抜いて、高品質を安価で、ひろく販売する新しいビジネスをたちあげた。(仕入れの方法にアイディアがある)
しかし、一代社長は継承に失敗。同族経営から大きな組織に育てるまではいかず、市場から撤退した。

たぶん、骨組みはそういう話だ。
他の部分は枝葉に過ぎない。

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仕事と学問の折り合いを見つけられるかを問う『生き抜くための数学入門』

生き抜くための数学入門 (よりみちパン!セ 23)


『生き抜くための数学入門』(理論社/新井 紀子)


迷ったら時代を生きぬいてきたものをえらんで、という基準にまちがいは少ないけれど、時代がくだった利もあるもの。
既に述べられてきたことを見渡したうえで、つけ加えることができる。

いくぶん情報がありすぎるほどに増え、選択肢も増えた。それにつれ自由も増えたように思えるが、思うままに取捨選択ができる人を前提にした自由でしかない。
なぜ、どうしてそうなるか、自分でも納得がゆくようにならなければ、わけもわからないまま、なんとなく不幸になる。
そうした事態を避けるためにも数学はよい。現実離れした抽象の世界をあつかうのも、いっけん違う問題に見える事柄を解くのに、まわりまわって役にたつ。(p.58大意)

うまい正当化だなぁと感心したのは、他の学問にしても、この正当化がたちいかないと、うっすら不幸になるような気がしているからだ。今までやってきたことは何なのかと問い続けることになる。
じゃあ社会に出てから困らないために、予行演習みたいなものを続けておればいいのかといえば、一見、関係のないものが結びつく・役にたつと気がつく、飛躍の機会は損なわれる。

上司は宇宙人みたいなものです。まず言葉は通じないと思ってください。頭の中に、素早い答えとなるストックは持っているけれど、フローの部分の出入りが激しすぎて、一度に伝えて伝わる量は限られています。その隙に入り込める小ささにまとめ、伝える術を考えましょう。
としてもいいのだけど、そのまんまなシミュレーションは面白くないうえに、ひどく使い道がかぎられるじゃないか。

装丁は、いまの「Yonda?」(新潮文庫のパンダ)デザインをやっている100%ORANGE。

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北方以上のポテンシャルはあるはずだった『ぼくの人生案内』

ぼくの人生案内 (知恵の森文庫)


『ぼくの人生案内』(知恵の森文庫/田村隆一)

しろうとが描いた絵を見るときに、なんでこんなにも優劣がはっきり見てとれるのだろう、と話し合ったことがある。「手間ひまかけられたものは見たらわかる」に落ち着いた。かけられた苦労を見抜くのが楽しいことは、美しいということとは違うかもしれないけれど。
ためらい傷のように描いては消した線や、塗りこめられた失敗のあとは、見えてしまうものなんだろう。

人生相談がとりわけ好きかと言われても困る。ひいきの作家が書いていれば、行きがけに読むにためらわない。
しいてあげれば「平凡な問いに、どうひねった言い方で返すか」「とっぴな問いに、どうやってけりをつけるか」を、期待しながら読むのは面白い。

いかにも堅気ではない見てくれの、じじい写真以外に見るべきものはあまりない。
ヒモ時代に「喧嘩したあげく、つい突き飛ばしたら二階の窓があった。死んだかと思って竦んでいたら、階段をかけあがってきた血塗れの女に、逆に殺 されそうになった」大竹まことの経歴くらいのものは、さぞかしあるだろうに、面白みに欠けたじじいになってしまっていて、実につまらない。
これなら詩集を読んだほうがいいに決まっている。

一瞬、肖像が野坂昭如にみえてびっくりした。
酒びたり以外に、なにか共通項でもあっただろうか。

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金は道具である以上に何なのか『ヴェニスの商人の資本論』

ヴェニスの商人の資本論 (ちくま学芸文庫)


『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫/岩井克人)

「言いたいことがわからない」のとは違い、なんとはなし、奥歯にもののはさまったような物言いに感じられるのは気のせいか。
最後に「十冊の本」を薦める章で、たとえば昔では「岩波文庫の古典百冊」を読み通せば、まがりなりにも知識人と呼べたわけだけれど、今ではそう簡 単にはいかない。古典にしてもどこかで引用される「もと」に成り下がり、それらの組み合わせで頭の良さをあらわす時代。あきらかな指標などは、もはやな い。(うろおぼえの大意)
というのを読むに至り、作者はポストモダンがどうこういうのとは、折り合いがついていないのじゃないかと思えた。
本文中でレヴィ・ストロースや何やらの引用がなされたりもするのだけれど、「和解していないものにみずから加担しているのでは」という迷いがあるのかもしれない。

表題作は、文学の興味のみでも読みとおせる。
後半は経済学の基礎知識が必要。(いちいち解説をしないから)
「キャベツ人形」と「パンダの親指」は、まわりが熱に浮かされたなかで読んだら、もっと面白かっただろう。
「ホンモノのおカネのつくりかた」「はじめの贈与と市場交換」が良かった。

「グローバリズムは資本主義の必然ではあるけれど、差をなくして利益を食いつぶすことで、みずからの首を絞めるのもまた必然である」(要約)というのは、おそらく、ずっと首尾一貫した作者の主張なんだろう。これは常に明快。

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人外のケモノ『獣儀式』

獣儀式 (幻冬舎アウトロー文庫)


『獣儀式』(幻冬舎アウトロー文庫/友成純一)

「ひとでなしの仕業ですね」という言葉には、どこかで抵抗がある。人でなかったら何なのか。たまたま自分で思いつかなかった、実行に移さなかったことを、誰かに負わせて糾弾することで、他人事として切って捨てようとしているかに思える。
けれど、それくらい図々しい方が健康だともいえる。

とことん不快で痛い表現ばかり連ねられ、登場人物の行動に歯止めはきかず、一切のたがが外れている。
「気持ち悪い小説を書いてください」と依頼された作者は、喜んで応えたのだから大成功。
スプラッタは、血のりが出てくる一表現でしかなく、肉体破壊が自己目的化し、ジャンルとして祭り上げられたら終わりだ。「スプラッタ作家」と呼ば れるのは冗談じゃない、と憤っていた作者は、復刊にあたって本編を読み直したら、スプラッタを自己目的化しているのに気づいてしまった。(「あとがき」大 意)
なんて冷静な。

綾辻行人は、友成純一を読んで『殺人鬼』を書いたらしい。
(たぶん、楳図かずお『神の左手悪魔の右手』の山小屋の話も、いくらかまじってる)
より過剰なので『殺人鬼』でだめな人は、読んではだめ。
サドの『ソドム百二十日』であるような中だるみは、一切ない。
好きか嫌いかでは、はかれない小説。
果たして自分が小説に感情移入して読み進めているものかどうかは、わかるかもしれない。
『陵辱の魔界』(幻冬舎アウトロー文庫)とともに、またも絶版らしい。

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ナポレオン狂じみた『パプリカ』

パプリカ (Blu-ray Disc) パプリカ オリジナルサウンドトラック


『パプリカ』(監督:今敏、原作:筒井康隆)

目にするものを、ときおり「よくできたものだな」と感心することがある。眼前にあるものが、すべて自分の脳のうちにしかないとしたら、自分の意識の外にあ るはずのあれやこれやまで、うまくできているものだし、人はそれぞれに日々を暮らしている。ことは自分を軸にするに限らない。
いま自分のいる世界を、湾曲した葉に、からくもとどまった雫だとして、その外には広くちがった世界がある、というのも否定ができない。

本編にあらわれる、高いところから落ちる、落ちそうになる感じは、そうした疑いを持ったがために足もとがたよりなくなる時の、前触れなしのめまいに重なった。とても気持ちが悪く、気持ち良くもある。

セックスするときには女が男を食べているようなもので、その女とて女にくるみこまれた場所から生まれてくる。あちこちに出てくる穴ぐらや狭い部屋は胎内をあらわしてもいる。
「地上最大のショウ」のパロディ(パンフレットp.6)と見せて、人形たちのパレードとサーカスは江戸川乱歩の世界にも似る。「つまるところ本作は、筒井 康隆という巨匠への今敏監督の壮大なオマージュなのである」(同p.13)とあるが、筒井康隆が江戸川乱歩に見出されたことを思えば、ここにも入れ子の関 係がある。

要素要素を取りだしてみるのも、こうした「枠」をもつ物語には野暮なのでよしますが、大音量の映画館で観るほうが、愉快にちがいない。

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世にも奇怪な物語『忌まわしい匣』

忌まわしい匣 忌まわしい匣 (集英社文庫)

『忌まわしい匣』(集英社/牧野修)

江戸川乱歩はだんぜん短篇集がいいに決まっているけれど、現代に移してしまったら、もうああいうのは無理なんだろうかと思っていた。
ぶつりぶつりと途切れがちに見る夢のように、八方丸くおさまるような決着とは無縁な、とりどりに陰惨な話が書かれる。血やら何やらがふんだんに出てくるわりに、後味は悪くない。

牧野修を好む連れに映画『パプリカ』(監督:今敏)を勧めてみたら、登場人物が口走る電波文が古くさいと笑われる。
牧野修の書く電波文は、構文はふつうだから。出てくる単語だけが、聞いたこともないものに挿しかわっている。

(たとえば、下のような文)

カミススリ系の三角であるのなら、ホテ系カザリクジリ三角が有効だ。<燐粉辞典>も<甲殻の電離層>も、ホテ系の三角を創造する条件の一つだ。(「電波大戦」)

牧野修の短篇集ではいっとう良い。
建石修志の表紙絵もぴったり。
文庫本も出ている。

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2008年8月18日 (月)

まだまだ予想を裏切る面白さ『脳のなかの幽霊』

脳のなかの幽霊 (角川21世紀叢書)

『脳のなかの幽霊』(角川書店/V.S. ラマチャンドラン他)

池谷裕二『脳はなにかと言い訳する』と、茂木健一郎『脳と仮想』は、

パラレルな関係にあると思った。

いまわかっていることはここまでで、言えることには限りがある。というところまでは一緒なのだけれど、「これから先」を言う段になって変わる。
発想のジャンプは必要でも、いまの延長線上で分かるのではないかと推測する池谷裕二。今までの科学が取りこぼしてきたものに解決の糸口があったのではないか、とそもそもを疑う茂木健一郎。
この作者はどちらでもない(どちらでもある)。
「フロイト批判が流行っているようだけど、本当にフロイトに見るべきものはないのか」とさらってみるくだり(第7章)には好感がもてた。
猿がシェイクスピアを書ける確率と、自閉症などの芸術と創造性と(第9章)
進化心理学(例:竹内久美子)のうさんくささを言うために「白い肌でブロンドの女性が好まれるのは、寄生虫がすくっていないか目視がしやすいからである」という説をぶちあげ、医学雑誌に投稿して掲載された話(第10章)
どの章もたいへん面白い。

テーマが盛りだくさんすぎて、読むのにひまがかかった。
『MOUSE』『ボディ・スナッチャー』(あるいは『月の裏側』『ローズマリーの赤ちゃん』など、SFを見る目が変わる。
(2008.2.2)
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茂木健一郎は、「ちくま」(筑摩書房PR誌)連載を見てから、意外にも、かなり悲観的な見方をする人なのだなぁと思っていた。
『脳と仮想』(新潮文庫)を読み、「すべてが相対化されてしまう(かもしれない)世に、ひとり対決しようとした人物」として、小林秀雄をとりあげたのだろうかと思う。
以降、「ポストモダン」と「小林秀雄」は、対になって頭にある。

脳と仮想 (新潮文庫 も 31-2) 脳はなにかと言い訳する―人は幸せになるようにできていた!?
対称的な二冊。

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目に浮かぶバーチャル『Mouse』

MOUSE(マウス) (ハヤカワ文庫JA)


『Mouse』(ハヤカワ文庫/牧野修)

使う者からすると、なぜコンピュータはこんなにわからずやなのか、と憤慨しがちなのは、圧倒的に得られる情報にへだたりがあるから。と書かれたものに納得したことがある。 (※)
自分はディスプレイのこちら側で、視覚もフルに使ってあれもこれも見ている。次にあれをしよう、とすら考えている。
対するコンピュータは、実行するための具体的な指示を待っている。情報量には面と点くらいのちがいがある。なかなか通じないのが当たり前なのだとしていた。

目の前にひろくひろがるものを、言葉に直して伝えようとするのは、どだい難しいものなのだと知れている。いま、自分の考えに浮かんだものは、なにが原因かなどとはひとくちには言えない、言葉に詰まる。
うまいことを考えた、と思うことはあれど、それはどこかで見聞きしたフレーズでしかなかった、と気づいた時にはがっかりする。
だじゃれを排してみたとして、記憶にのこるキャッチコピーはかけことばが多く見られ、リズムがいいと思う文を洗ってみれば、なじみの七五調だったりもする。

あらわす言葉にとぼしい嗅覚や触覚は、色やにおいの表現と置き換えられる。はじめ幾らか飾りすぎくらいに思える文と、無意味な言葉で相手を「落とす」という作中の行為は対だ。
小説のための小説。同じ作者の短篇集『楽園の知恵 あるいはヒステリーの歴史』に収録された、「逃げゆく物語の話」を読んだときに『MOUSE』を思い出したのは、同じテーマがすえられているせいだと思っている。

一度絶版になっていたものが、SF読者の人気投票で復刊した。
(2008.2.2)
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『あなたはコンピュータを理解していますか?』(梅津信幸)
あなたはコンピュータを理解していますか? あなたはコンピュータを理解していますか? 10年後、20年後まで必ず役立つ根っこの部分がきっちりわかる! (サイエンス・アイ新書)
パソコン用語、ことばの「そもそも」から説明を始める。
いろいろと、本筋の話に入るまでが長いのでしんどいけれど、読み通すと面白い。
知らない間に新書にもなっている。

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吹き替え声優はもともと一級の俳優だった『とり・みきの映画吹替王』

別冊映画秘宝 とり・みきの映画吹替王 (洋泉社MOOK)

『とり・みきの映画吹替王』(洋泉社ムック/とり・みき)

テレビで放送された洋画を、ぜひ観たほうがいいと説かれ、事情もわからず観た。
録画もしたほうがいい、と熱心に言われたものの、ねうちがわからないままだから、いつか他のものを重ねたのを、価値がわからない奴、とけなされるのも業腹に思えた。

テレビで洋画の吹き替えをやっているのは当たり前、自分が借りたり、映画館で観る時は字幕が当たり前。
どこかで価値の変換がおこったらしく、無料で観られるものは低く、つど払うものは高く置き換えていたらしい。

吹替えには芸が必要で、字幕にあらわれる文字情報の何倍かということと、往年のテレビ吹替えが冷遇されていることが書かれる。
最近の映画事情では、かなり「映画館で吹き替え」も増えてきたような印象があるけれど、『トイ・ストーリー』以降、「登場人物と顔が似ている」だけ芸能人、などが声優をやる。尊重されない事情に、あまり変わりはない。
もちろん、とり・みきも、そういった吹き替えには距離をおいている。

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そうこうしているまに、広川太一郎も亡くなってしまいました。

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初めて知った名文『笑わぬでもなし』

『笑わぬでもなし』(中公文庫/山本夏彦)絶版

古本で買う。

もともと「文体がいい」という褒め言葉はわからない。
こむずかしい漢字まじり、普段は見かけない言い回しをことさらに使うことなのか。口に出したときのリズムのよさか。使う言葉を吟味して、きらいな 言葉は注意深く避けることか。なんとはなし、その作家びいきの人に尋ねたところで、いまひとつ要領をえないのもあり、こういうものが好かれるのだろうとは 予測がついても、どこか他人事だった。

山本夏彦の文は、擬音語や擬態語がほとんどなくても、動きをあらわすどころか、おかしさまであらわす。引用しはじめると、切れ目なく引用してしま いそうになる。部分だけ抜き出すと、意味が通じなくなることも恐れる。一文の中で、常に反対の意見が述べられるものだから、すべて読まないと意味が通じな い。

著作はおおむね似たことを言っているから、どれを読もうと大差はない。
ただ、5~6頁にわたる、幾らか長いものの方が、あちらこちらに話が飛んでは、明確な結論に落ちる妙がある。
中身は何を言っていようと、読むこと自体が楽しくてならない。文体を褒めるのはこれであったか、と初めて思ったのもなつかしい。

自分の言うことはわかりにくいが、わかるものには電光のごとく伝わる。その数は百人には満たない。と「読者百人説」を唱えていた。
百人で足りるわけがないが、山本夏彦を読むものは、みな、我こそ百人のうちの一人だと思っている。心ひそかに、百人の中でも自分がいちばんだと思っている。
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山本夏彦の過去の本は、どれも品切れが多い。
まとめて読めるのは新潮文庫から出ているものと、中公文庫の復刊くらい。
随筆以外で良いのは、『完本 文語文』(文春文庫)
完本・文語文 (文春文庫) 私の岩波物語 (文春文庫)
『私の岩波物語』(文春文庫)とあわせて読むと、日本語と出版の流れをながめることができる。

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Googleの語源『眠れぬ夜のグーゴル』

「社会調査」のウソ―リサーチ・リテラシーのすすめ (文春新書) 眠れぬ夜のグーゴル 統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門 (ブルーバックス 120)

『眠れぬ夜のグーゴル』(アスキー/A.K.デュードニー)

『「社会調査」のウソ-リサーチ・リテラシーのすすめ』(文春新書/谷岡一郎)で書名があがっていたので読んでみる。
この手の本で、基本的なところは『統計でウソをつく法』(講談社ブルーバックス/ダレル・ハフ)で足りているような気がしてきたところだった。

広告や報道には何らかのごまかしが入っていますよ、それ見たことか、という指摘を繰り返してみても、目先の問題にパッチをあてることにしかならない。また、こうしたごまかしの手段は、ことこちらが売る側にまわれば、多かれ少なかれ手をそめることになる。
「お客様にわかりやすいように、見栄えを整えたグラフをつくりましょう」ということひとつとっても、罪にくくることは易い。
航空会社のなかでの「飛行機は(自動車と比べて)安全だというデータを謳いたい経営陣と、依頼されたエンジニア」のくだりで、まちがいやおおげさを指摘する読者も、つくる側にまわりうるのだと示唆されているように読め、信がおけるように思う。

ダレル・ハフはあえて数字を出さずに話を進めていたけれど、こちらは真っ向から「数音痴」が問題に据えられる。
だからといって、数学万歳といったら反感を買うのもわかっているから、なだめたりすかしたり忙しい。
第11章「みんな数学者」では、複雑でわずらわしい日常を難なく処理していけるのだから、本来、数学の能力は「ない」ものではないのだと言う。
第10章「氷山の一角」では「えせインテリは誰でもとは言わないが、人文科学の分野の人で、しょっちゅう数学の考え方を鼻であしらったりするのだ。わずかしか数学の素養が見られないのに、彼らは数学をさげすむだけではなく、自分の無知も誇示したりする」(p.255)
文学をなにもわかっていない文学音痴が高説をぶっていたら笑われるのとおなじことだ、と続ける。

なぜ11章から引いたかというと、まえがきで「数音痴を少しでも感じているのなら11章から」と薦められたからで、構成もよくできている。
表紙もしゃれているけれど、残念ながら絶版。

釣銭詐欺(つぼ算)を初めて知ったのは「ドラえもん」だったことを思い出した。
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このあたり三冊くらいを読むと「だまされまい」と意固地になり、のちに、そのことに飽きます。

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喧嘩をふっかけるかに見せてまとも『反社会学講座』

反社会学講座 (ちくま文庫 ま 33-1)
『反社会学講座』(ちくま文庫/パオロ・マッツァリーノ)
『ヤバい経済学』と少し重なる。
私は文庫になるまで知らなかったけど、おおもとはWEBで公開されている。
山口智弘がむかし演じていた、ラテン人を思い浮かべながら読むとおかしい。

第2回「キレやすいのは誰だ」
若者の凶暴化をなげく論調に反論。
なかでも「凶悪犯罪の中で、少年比率が高まってるらしいじゃない」という問いに「あっ。そのデータはぜひ、ご内密に。それは逆に、戦後の少年法がきちんと機能していた証拠になってしまいます。」とこたえるくだり(文庫p.39/WEBにはない部分)。

第3回「満足ですかー!」
「家庭生活に不満な理由」というアンケート回答で「複数回答可がポイント」と指摘するところ。(p.55/WEBにも掲載)
などが良かった。

はじめに書かれた、批判もしている社会学のやりかたにのっとったうえで、まともに聞こえることを言うぞ(ただし楽観的に)と意気込むのだから、おかしい。
時事がらみの文章が多いから、すでになつかしい。

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2008年8月16日 (土)

いったい何をもって公平とするのか『ヤバい経済学(増補改訂版)』

ヤバい経済学 [増補改訂版]

『ヤバい経済学』(東洋経済新報社/スティーヴン・レヴィット)

週に一度はめぐってくるなら、まずは目当てを逃さない。
かたや、月初の一日かぎりを待つなら、こもごもの都合を繰り合わせるのもおっくうだ。
そもそも正価が高すぎると思ってはみても、レディースデイに映画を観るときには、やましさが残る。月初の映画の日を待つ身からすれば、ずるいと指さされてもしかたがない。
私にとっては1800円と1000円の差は、時にひらきすぎており、いくらか上乗せして前売りを買うのが当に適している。

『環境問題はなぜウソがまかり通るのか』(洋泉社)を本屋でひらいてみた折、折れ線グラフが提示され「年々ペットボトルのリサイクル率は上昇して います」+「年々ペットボトルの使用率は上昇しています」=「リサイクルするほど、ペットボトルの使用率は上昇しているのです」と注釈があった。
それは因果関係が逆なのではないだろうか、と思って読むのをやめた。

「ヤバい経済学」(東洋経済新報社)は、経済学で「インセンティブ」と呼ばれる、人の行いの動機づけと、なんとはなしに納得している事柄の因果関係を、再検討してみる本だった。
作者は、インセンティブを「金銭的」に限らない。
投票をしに出かけていくのは、「私は義務を果たしているのです」とまわりに宣言できるメリットがあり、社会的インセンティブがあるとして、投票を郵送にしたら投票率が下がった事例を紹介する(p.299)。
何が原因で、何が結果なのかを見定めるのは難しいことが、何度も文中には出てくる。
第5章では、親が子にしてあげられる教育の効果はいかほどか。第6章では、親が子につける名前の傾向と、その意味をみる。
第5章の結論としては、親になったあとで付け焼刃で何かをしても、与える影響は少ないんですよ、親が持つ価値観なんかはそうそう変わりやしません、じたばたしても遅いですよというもの。
つづく第6章では、つけられる名前は「結果」としてあらわれたもので、「原因」じゃないとする。
耳新しくて、文学や歴史などの典拠もありそうで、しゃれた名前の子供が成功者になったとして、それは名前のみが原因ではないだろう。にも関わらず、少しずつ下がる所得層で、そうした名前にあやかりたい、というように名前が消費されてゆく。
親たちはことの因果を、知ってか知らずか取り違えていることになる。

「ヤバい」と言っても、犯罪社会の儲けのからくりなどを解いているわけではない。(それは「仕事師たちの平成裏起業」 (小学館文庫) だ)
社会学に近づくのは、作者本人もわかっているらしく「もしも私が三つの願い事をするなら、たぶんその一つは、本当の意味で多分野をまたぐ社会科学者になりたいということになる」(p.328)とある。
面白い本でした。
(2007.8.11)

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2008年8月15日 (金)

入れ物が先か中身が先か『進化しすぎた脳』

進化しすぎた脳 (ブル-バックス)

『進化しすぎた脳』(講談社ブルーバックス/池谷裕二)

文中、「神経伝達物質」で何か知っているものがあるか、と問われる章を目で追っている最中、「アセチルコリン」が浮かんできて仕様がなかった。
文中で知らされたのは「ドーパミン」「セロトニン」「アドレナリン」で、そこにはあがってこない。執拗に浮かんできたわりに的外れだったのか、と 読み進めているうち、のこり三分の一ほどで当の「アセチルコリン」が出てきた。どうやら神経伝達物質のひとつではあったらしいが、高校生物をさらったきり の私が、意味がわかって思い出したわけでもないのが、なおのこと愉快である。

「情報の文明学」(梅棹忠夫/中公文庫)で、分相応の水準以上に国が教育に投資する必要などない、とする「過剰教育論」を疑うくだりがある。現代 の社会があるのも、農業が主だった社会のなかでも、当時にしては過剰な教育がほどこされたものがいたからで、情報の時代において教育に過剰などというもの はない、という。
目先、目先で役立つものが、そう遠くない将来、はたして役立つかどうかなどあやしい。「いま、役立つ」と言われてから、すわと修得にかかり、ならい覚えた頃にはふるくなっていた、などと後手にまわることなど珍しくもない。

書名になっている「進化しすぎた脳」の話がそのまま出てくるのはp.82から。
脳の体積をひき比べて、水頭症にかかることで9割目減りしても日々をおくるには支障はなく、クロマニヨン人でもいまの人間とさほど変わりはない。イルカの脳は人間よりも大きい。
からだの器官と脳は呼応していて、腕がきかなくなれば、対応した脳の部分もきかなくなる。
あわせてみれば、人間の脳はもっと能力があるはずなのに、意外に不自由な体に縛られ、存分には発揮しきれていない、という。
<こうして脳は、一見すると無駄とさえ思えるほどに進化してしまっているけれど、でもそれは裏を返せば、将来いつか予期せぬ環境に出会った ときに、スムーズに対応できるための「余裕」だと考えることもできる。新しい環境や、もしくは進化や突然変異などで体そのものの形が急に変化してしまって も、余裕を持った脳は、依然これをコントロールすることができる>
(p.87 引用)

p.188あたりで、正確な記憶力など意味がない、とされるのを読み、モンテーニュを思い出した。
記憶力がすぐれているひとは、往々にして判断力がおとっているものである。完全な記憶というものがあれば、他人のさまざまな意見が自分の意見のじゃまをするだろう、というようなことが「エセー」で書かれてあったのだった。
人が見てとれる世界はまるごと理解するにはあまりに大きく、人ごとに違う解釈で組み合わさってできていると思っているものだから、異なるアプローチがまじわるに至るのが、楽しくてしかたがない。

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耳慣れないから印象に残る翻訳『鶯の卵』

鴬の卵—新訳中国詩選 (1985年)

『鶯の卵--新訳中国詩選(1985年)』(筑摩選書/土岐 善麿)絶版

大学の時分、中国文学概論の講義で、なにげなく教授がそらんじたのが、
ずっと引っかかっていたもの。
「春暁」の「春眠不覚暁」を見るなり、ただちに「春眠暁ヲ覚エズ」と読み下してしまうところに「春あけぼのの うすねむり」という訳は、目がひらく思い。

春あけぼのの うすねむり
まくらにかよう 鳥の声
風まじりなる 夜べの雨
花ちりけんか 庭もせに

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本と中国と日本人と (ちくま文庫)

『本と中国と日本人と』(ちくま文庫/高島俊男)

高島俊男の漢文について書かれた文章を読んでから読むと、また面白い。

「書き下し文なんてものは中国詩原文の何も伝えていない!」と憤り、「漢詩文は玄海灘に捨ててきた」という話が出てくるのは、たしか、この本だった。

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早回しでみる栄枯盛衰の物語『マーティン・ドレスラーの夢』

マーティン・ドレスラーの夢

『マーティン・ドレスラーの夢』(白水Uブックス/スティーヴン・ミルハウザー)

はじめ『サバイバー』のあとに読むんではなかったかな、という気がした。マーティンの行く末は、なにかの力に手を引かれているかのように、本人もいぶかしく思うほど良い方へ転がっていく。
対をなすあれやこれやに引っぱられながら、なかを取って調和を保とうとしても、えらばなかった分岐はいつまでもあとを引く。
功なり名をとげても足りなかった結末は、ひとつの文明が盛りを極めて衰えたようでもあるし、大きくて空の蟻塚をみるようでもある。
それをさして気の毒だとか幸せだとか成功だとか、なにがしかの評価をくわえられるものではなく、ただ、そういうものなのだ、なるようにしかならないのだと思える。

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エンドレス自問自答『サバイバー』

サバイバー (ハヤカワ文庫NV)

『サバイバー』(ハヤカワ文庫/チャック・パラニューク)

人ごみが嫌いだけど田舎すぎるのも好きではなく、否定を重ねていけば、いいところが見つかるかと思いきや、そういうものでもない。
わかったふりをしてしまえば、説明はいくらでも後づけでつけられるのだから生きるに値しないように思え、眼前のものをやっつけることに心をくだけば、知らず、誰かに気の毒がられていたりするのもまっぴらだ。
とはいえ、拒否、拒否、拒否があやまった結果になってしまったことくらいはわかっているつもりだし、あやまったとはいえ、途中から道幅はずいぶん狭まっていて、ほとんど一本道で選びようがなかったんだ。

そうした独白。

「重々わかっている」「知ったつもりで、いったい何を知っている?」という問いかけを、独りでしていても答えは出ないままに、なにもできなくなる。

前半はほぼ伏線になるので、状況をつかむのに手間取った。

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作者は『ファイト・クラブ』の原作者。 どうも、著作はことごとく絶版になっている。

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逆説的なタイトル『愛がなくても喰ってゆけます。』

愛がなくても喰ってゆけます。

『愛がなくても喰ってゆけます。』(太田出版/よしながふみ)

愛がなくなっ(たように見え)ても、美味しさを共にできれば関係なくなることもある。
喧嘩したときに、二人で選んで通った店が浮かぶかどうか。そういうときにありふれたチェーン店は、おそらくものがなしさを増す。
いさかいの原因がありふれていたからといって、ひきうける者にとっては何ひとつ目減りしない。あいにく感情は、デフレ下のモノにもインフレ下の貨幣にもなってくれない。

甘い時間のうちに、たくさん美味しい店をつくっておきましょう。

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後悔の連鎖『リヴァイアサン』

リヴァイアサン (新潮文庫)

『リヴァイアサン』(新潮文庫/ポール・オースター)

p.165より
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言い換えれば、普遍的な真理はどこにもなかったということだ。彼らにとっても、ほかの誰にとっても。責めるべき人間もいなければ、擁護すべき人間 もいない。唯一正当な反応は共感だった。あまりにも長い間二人を崇めてきた私は、こうしたことを知らされて失望を感じずにはいられなかった。だが、それは 彼らに対する失望というだけではなかった。私は私自身に失望し、世界に失望していた。どんなに強い人間も弱いのだ。そう私は思った。どんなに勇敢な人間に も勇気が欠けている。どんなに賢い人間も無知なのだ。
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恨みがましい人になってはいけない、と諭すものが、誰より恨みがましいふるまいをしたりする。
どこかに正しいものがあって欲しいと語り手は願っている。片方が見えているなら、見えないもう一方は予測がつくもので、欠けたパズルのピースのよ うに埋められるものかと思いきや、はじめからパズルの完成形などなく、枠を定めるのはフィクション、補うピースになるのもフィクションなのだと知らされ る。

登場人物は、どんどん歳をとっていく。
「過去にたらればはない」と言いながらも、後戻りできない時間を思っては「あのときこうしていれば良かったのだろうか」「このとき、二人が出会っていなければ」という記述が、後半ではいよいよ増す。
後悔は、しないと決めてできるものではない。
(2008.1.6)
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犬好きの連れが『ティンブクトゥ』をいたく気に入っていたのを機に、
初めてオースターを読んだ。
『ティンブクトゥ』のうたい文句は、「両思いの物語」だった。
ハチ公の物語が犬好きに耐えられないのは、ハチ公が「もう飼い主はいない」ことを理解していない、永久に片思いになってしまっていることがつらいからだろうか。
それとも、わかりあえていると思っていたのは、ひとり、人間の側ばかりなり、ということが知らされるからだろうか。

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見方がひっくりかえる『生物と無生物のあいだ』

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書 1891)

『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書/福岡 伸一)

迷っていたものを、通勤の復路で読むものが尽きたのを機に買う。

見聞きする「遺伝子組み換え」「ES細胞」「ヒトゲノム」「ドリー」等から、ヒトも含めた生物をどれだけ思うようにできてしまう現状なのか。詳しくはわからないながらも、自分のあずかり知らないところで、機械を扱うようにあしらっている人もいるのだろう。
くらいに思っていると、論旨が逆転するので面白い。

概説+著者自身の見解の構成で、各章立ての導入は思い出がたりから始まる。毎度なので、本筋から外れているようにも思えたけれど、終盤で著者の研究にひっぱっていくためと、「生物とは何か」の問いにこたえるための布石なのだとわかり、納得がいった。

いずれ読むリストにある、ファラデーとグールドを早く読もうと思ったのに加えて、シュレディンガー『生命とは何か』も読みたい。
(2007.12.29)
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岩波文庫(青)『生命とは何か』が増刷されたのは、この影響なのかもしれません。

 >関連本 『進化しすぎた脳』『脳のなかの幽霊』

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ぐるっと一巡り『会社はこれからどうなるのか』

会社はこれからどうなるのか

『会社はこれからどうなるのか』(平凡社/岩井克人)

前半までは、基本をおさらいの趣。
経済、経営、法の概論を一息に。

法人をヒトとして扱う「法人実在説」と、モノとして扱う「法人名目説」があり、両者は分かちがたい。会社とはどっちつかずな存在である。
しかし、ヒトとして扱うと、ヒトがヒト(従業員)を所有することにもなる。これは近代社会では否定されてきた奴隷制度を思わせるものでもあり、西洋では受け入れられがたい。
会社をモノ扱いする、株主主権制度が西洋でつよいのは、このためだとは、見やすい論理。

第7章「資本主義とは何か」から俄然おもしろかったので、『ヴェニスの商人の資本論』(ちくま学芸文庫)も読もうと思う。
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いま思うと、聞き語りがもとなだけあってか、少し話があちらこちらしているような気もする。

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どこまでも野次馬になりたがる自分を見る『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』

真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (1)巻 (ビームコミックス) 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン (2)巻 (ビームコミックス) 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 3巻 (ビームコミックス) 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン 4巻 真説 ザ・ワールド・イズ・マイン5巻 (ビームコミックス)

『真説 ザ・ワールド・イズ・マイン』(1)~(5)(エンターブレイン/新井英樹)

これを熱心に読むこと自体「どんなことであろうと、一抹のやましさを支払いさえすれば、あとはいくらでもひとごとと見て面白がって差し支えない」と都合よくみなしているようにも思える。
作中で何度も描かれる「安全な高みから、よろこんで見物を楽しむ姿」よりもむしろ、見苦しくもある。

ひなにもまれな美人が同級生にいて、メディアに出てくる人もかくやと思わせ、教師も人間なのだと思い出させるほどに、目こぼしを受ける。末は何になるのかと思いや、教室のうしろでタバコを吸っていた男子と、いつのまにか子を為す。
また、上京してデビューするのだと風の噂で聞いたと思えば、マネージャーとの間に子供ができて、里帰りしたのだと聞く、別の美人のいきさつを耳にする。

けちをつける筋合いはないにせよ、なにものをも振り回せるような力を持っていたはずの者の顛末としては、見たくも聞きたくもないような気が、どこかにある。
耐えがたい陳腐が、たくさん出てくる。

否定も肯定もしない。
ことの始末は、意外なようで、これしかないように思えた。

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面構えのわりに甘い『夜を歌う+8』

夜を歌う+8

『夜を歌う+8』(徳間ジャパンコミュニケーションズ/勝新太郎)

むかしの歌謡曲で、「むりやり日本語に直して歌ってしまう」たぐいのがあって、どうも、ずっこけ半分で笑ってしまうのだけど憎めない。どころか、言い切ってしまうと大好きだ。

飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」とか、小坂一也の「ハートブレイク・ホテル」、江利チエミ「テネシー・ワルツ」、坂本九「ステキなタイミング」・・・父親のカセットテープ(!)選集から、オールディーズばかり入れたもののどんじりに、これらが入っていたのを聴いた。
本家もしっかり入っていたのものだから、むりやり訳した結果、テンポがあわないところもしばしば、少し抜けた感じになっているのがよくわかった。
抜けた感じが愛嬌になっている。

このアルバムは、かっこつけすぎていて、ださいが、それが良い。
JBの歌う「Sunny」と、このCDでの「Sunny」では、そこにおおきな開きがあって、面白いなあとついつい立て続けに聴いたりする。

あとは「Summer Time」「Moon River」をときどき聞く。

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JBのズージャ『Gettin' Down to It』

Gettin' Down to It

『Gettin' Down to It』 (Verve/James Brown)

JBの歌いかたは「自信を持ってかっこいい」のだと、いつも思う。

かっこよさに揺るぎがない。 本人、自分のなんたるかをまったく心得ていて、それが丸のまま伝わってきているような錯覚がある。

JB(神)の、Jazzアルバム。
ジャンルで何がどうこういうのかは、よく知らないが「There Was A Time」はファンク要素もつよいと思う。
(何を根拠に、と考えてみるに、おそらくはスライ&ファミリーストーンで、似たリズムの曲があったからだ。)

一番聴き返してしまうのは「Sunny」で、テンポが速くなるあたりからが特にいい。

「Sunny」を聴いたあと、聴き比べたくなるアルバムが他にある。
(2007.11.1)
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自分が生きてるうちは、死なないでいてくれると思っていた節がある。

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2008年8月14日 (木)

白い粉と暮らす『変わる家族 変わる食卓』

変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識

『変わる家族 変わる食卓』(勁草書房/岩村 暢子)

韓国から来ていた留学生が、学祭のだしもので「チヂミ」を提唱した。
買出しに出かけた折、これがないと味が決まらない隠し味、とカゴに入れられたのはうまみ調味料。味付けには、さじどころではなく、おたまで掬う。
本場の味をおしえてもらおうと後押ししていた者でも、もう少し量を抑えたら、と進言しては、にべもなくつっぱねられるばかり。
実家では、それほど大量の白い粉を見た覚えがないと否定しながらも、塩コショウのボトルに「味」という冠がついていた記憶が浮かぶ。
「そのもの」がないとばかりに、安心していただけだった。
外食で使っていないところの方が少ないよ、と、厨房の内っ側を目にすることの多い仕事に就いた者から聞くのは、更に後のことになる。

これはマーケティング調査がもとの本とはいえ、変わりゆく食卓を、あらっぽい因果関係に落とそうとはしない。
普段の、食事に対する意識をアンケートで調査、のちに毎日の食事を写真に残してもらい、最後に写真とアンケートをつき合わせた上でヒアリングを行う。

特におもしろかったのは、「主婦の身勝手につきあわされる夫」と思うのも早計だとするあたり(p.131)、また、子供の嫌いな野菜でも、ばれなければ勝ちとする目標と対になる、家庭科の教科書(p.88、付論)。

岡田斗司夫がレコーディング・ダイエットを始めたきっかけは、「何でたいして食べてないのに太るんだ」とひとりごちながら、手許に目を落とせば飲んでいたものはコーラ。食べていたものはスナック。
それらを勘定に入れていなかったことにショックを受けた、と書いていたかと思う。

菓子類で腹をふくらませることは、善悪はさておき、思うよりたやすいのだし、化学調味料は、うまいと感じるようにつくられている。
こんな食卓は自分と縁遠い世界だ、と言い切ることは、主婦のアンケート第一弾に似る。
みな、初めは、誰しもに是とされるだろうことを言っていた。
(2007.10.24)

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引きこもる気持ちと社会の接点はどこか『コドモであり続けるためのスキル』

コドモであり続けるためのスキル (よりみちパン!セ)

『コドモであり続けるためのスキル』(理論社/貴戸理恵)
# <よりみちパン!セ>シリーズ 第3期配本

伊武雅刀に「子供たちを責めないで」という歌がある。
年端もいかない子供というのは、なんたる我侭・傍若無人・役立たずな存在なのであろうか、というアジテーションが続くうち、口角泡をためんばかり の勢いに苦笑しながらも、いくらかの賛意も寄せていたら「私はっ、子供に生まれなくて本当に良かったと思います!」というフレーズで足元をすくわれる。
一方的に責めることこそ身勝手であって、歌い手はむしろ子供のことが好きな設定なのだろう、というのも後半の歌い方からうかがえる。

昔の雇用状況に比べれば、いまは選び放題だとして昔を持ち出すのには、なじめないところがある。
p.97~「不満をおさえこむ学校」では、表向きは公平をうたっているのをよそに、「自分が頑張らなかったのが悪い」と諦めさせる役割について書かれる。
また、かつては点数至上主義だった学校が、「人間力」という評価基準を持ち出すことで、より深刻な駄目出しをしていることになる、ともいう。

初期の「ゴーマニズム宣言」で、美人コンテストに教養やら品格やら「美」以外を持ち込むことの弊害(それでは「人間選抜コンテスト」になってしまう)を言っていたけれど、教育から就職まで、広まってしまっていると思えた。
学歴じゃないですよ、試験じゃないですよ、と言われたあげく落とされることのほうが、余程つらいことかもわからない。

求職中に読むのもいいかもしれない。

解説つきとはいえ「メリトクラシー」などという用語が出てくるわりに、「社会運動っていうのはね」とやさしく諭されると、どこが読者層なのか、はかりかねた。
「コドモ運動」が何ものかは、よくわからなかった。

(2007/10/22)

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何をもって解放とみなすか『IT(4)』

IT〈4〉 (文春文庫)

『IT(4)』(文春文庫/スティーヴン・キング)
文庫帯:「恐怖に立ち向かう愛 ホラーを超えた キング世界の金字塔」

家族の食卓で、おたがい、食卓に目を落としたままの父娘のやりとり
「最近はスティーヴン・キングを読んでいるの」
「あんな、同じことばっかり書いてる作家の本か」
----題名も忘れた洋画より

四巻は、過去と現在が並行して、収束にむかう。

キングが書いた映画・小説の評論集「死の舞踏」(福武文庫・絶版/現在の出版元はバジリコ)では、影響を受けたもの、ホラーとしてだけでなく、後世に残すべきもの、その理由が列記される。
ひところ、アメリカのSF映画で「宇宙からの侵略」がテーマが大流行した。みなに受け入れられたのは、当時のアメリカとソ連の関係があってこそ、身に迫るものとして感じられたのだし、およそ、創作は当時のなにごとかを映しているものだとしていた。
家族や共同体が壊れていくことに、キングがこだわっていたことは、おそらくは当時のアメリカと無関係ではない。
同じことばかり、とはいっても、単語で言ってしまえば余りにも陳腐な「愛」を、直接言うことは注意ぶかく避け、とりどりのバリエーションで書かれているのがキングの初期作品だと思っている。

IT(それ)の正体がしょぼい、というのも、おそらくはキングがB級映画を愛しているあまりなのだと思っていて、途中経過が良いから、私はあまり気にならない。

帯見返しをみると、この頃、文春文庫から出ていたキングは「シャイニング」「ペット・セマタリー」「ミザリー」「痩せゆく男」しかなかったのが今は昔、ほとんど全作品を読んだいまでも、キング作品ではこれがベストで、集大成でもあると思っている。

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2008年8月13日 (水)

未だに、とらわれている何か『IT(3)』

IT〈3〉 (文春文庫)

『IT(3)』(文春文庫/スティーヴン・キング)

文庫帯:「待ちかまえていた あいつ もう一度対さねば 少年の心にもどって」

固有名詞を書きならべて、退屈な。アメリカの商品カタログでも書いてるつもりか、という批判がキングの小説にはあったらしい。
おおきくはずれてはいないものの、キングが小説をリアルにするためにとった方法だから仕方がないし、行をかせぐことが目的ではない。
すこしずつ、リアルを積み上げていったあげく、それらが徐々にずれていくことを書いている。
工業製品としてつくられた、モダンデザインな椅子を眺めている者たちでも、頭にある一瞬のフラッシュバックは、なにを見ているか知れない。
たしか、藤原書店の「バルザック『人間喜劇』コレクション」で鹿島茂が言っていたことと重なる。
「バルザックは、まず、町の描写をしつこいぐらい書く。くどいけど、それがないと当時のパリがいきてこない」(大意)

三巻は、二巻にひきつづき、過去パートがメインになる。
登場人物ごとの恐怖が次々再現されていく、残りの後半。

デブだから、家が貧乏だから、どもりだから、ユダヤ人だから、黒人だから。
さんざ理由をつけられ、体ばかり発達している、10代にしてダブリのエキスパート、ヘンリー・バワーズに目をつけられた夏に、ほんとうのところ何が起こったのか。
それぞれ思い出し語りをして、話をつないでいくうちに、ようよう、全体がみえてくる。
なにもわかっていなかったのは、登場人物も読んでいるこちらも同じ。すこしだけ、こちらに分があるのは、町の描写が淡々と書かれるパートが差し挟まれる点。

なにが起こっていたのか、なにが問題だったのか、ありったけの素材は既に出尽くした。知りもしないアメリカの駄菓子「リコリスキャンデー」を懐かしいと思う気持ちがあるのは、書かれる描写をみて、自分の知っている駄菓子を重ねあわせてもいるからかと思う。
そこには、読むものの主観がおおいに混じる。懇切丁寧に書かれたものは、映像として目に浮かびやすく、想像力の余地がないものだろうか。
実際は、各人、違うものを見ているからこそ、キング作品の映画化は難しいのだとみている。

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恐い は 弱い『IT(2)』

IT〈2〉 (文春文庫)

『IT(2)』(文春文庫/スティーヴン・キング)
文庫帯:「消された記憶がよみがえる あの恐怖と憎しみ そして血の盟約」

いったい、何が怖いのかときかれれば、ひとごとに違ってくる。「ながもの」のたぐいが嫌いな父は、図鑑ですら見ることはかなわないというし、鰻の蒲焼すらしりぞける。
原形をとどめていなければ構わないというものではないらしいのは、怖いほど、最悪の何やかやを想像してしまうからだろう。

二巻では、ひきつづき、登場人物の現在と過去を行ったり来たりする。
過去パートが多めになり、徐々に、過去に何があったのかが見えてくる。
何があって遠く離れた故郷(と呼ぶにはためらいがある土地)に向かわざるをえないのかは、まだはっきりとはわからない。

子供の頃は、なにかしら深刻な問題をかかえている。
家族や学校、田舎の町、余りにもかぎられた環境での持ち合わせは、生まれ持ったものと、ささやかながら集めた知識や、少しばかり人より得意なこと。身を守る手段は、端から限られているものだ。
実は、大人になったところで問題は消えていやしないのだけれど、気をまぎらす方法には長けているし、どうにもならなければ環境から足抜けもできる。
とはいえ、子供の頃のお守りやおまじないを笑うことはできても、「ドリエル」「ストッパ」「リポD」などと、かたちを変えて身の回りに居すわっているものもある。

暗がりを怖がるのは、人間の動物としての本能だとか聞くけれど、何を思って暗闇が怖いのかは、また違ってくることかと思う。
誰しもに、ひとしく怖がらせることができるものなどない。
IT(それ)は、人ごとによって、いちばん怖いものや怖い状況をつくりだす化け物だった。

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はじめは役割配置から『IT(1)』

IT〈1〉 (文春文庫)

『IT(1)』(文春文庫/スティーヴン・キング)
文庫帯:「27年前へ 少年の日々が呼ぶ デリーへ そこは宿命の町だ」

私は小説をほとんど読まない。登場人物を生かすも殺すも作者しだいだと思うと、興ざめる。ほんとうのドラマというには足りない。
というようなことを、どこかで高島俊男が言っていた。(対比に持ち出された例は、たしか棋譜)

文庫一巻は、街のパートから始まる。
次に、街に関係のある(と思われる)人間たちの、現在のパート。
次に、各人物の、過去のパート。
ひととおり出揃ったところで、一巻は終わる。

読む側からすれば、知らない人間たちが次々あらわれ、ほとんど前説もなく、情景描写や台詞のやりとりで話が進んでいくのは、戸惑いもある。
時間軸も行ったり来たりするうえ、不穏な空気こそわかるものの、いったい何を書こうとしたいのかが見えてこない。

ゲイが殺されたって?ひどい差別だね、どこかの都市では、日々起きているんだろうねとしたり顔をするといけない。
もちろん、どこの都市にも問題はあって、見ないほうがいいような歴史もあるだろう、それはわかってはいても、この街では「なにか」がおかしい。
ということを書こうとしている。
上記のような書き方は、ひどく説明的で、「なにか」を言わんとするには、捨てたものが多すぎる。
言おうとすることの周りの部分を埋めることで、書かれなかったものを想像させてぞっとさせるのは、キングの特徴のひとつだ。

「このひとは、こうこうこういう理由でこうしたふるまいに及んだのです」などと、大文字ルビつきでテロップが流れるものではなく、新しい環境に放りこまれたとき、はじめは何もわからないのにも似て、理由は遅れてやってくる。

はじめて読む際のとっつきにくさは、後になるほど、すべて伏線だったとわかる。しんどかったら目次を眺めて、展開を予測したっていい。
小説は小人の説だ、と知ってはいても読むのをやめないなら、これを読んだらいい。

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2008年8月11日 (月)

昭和一ケタ世代、花の御三家『武道館の野坂昭如』

武道館の野坂昭如

『武道館の野坂昭如』(セレソン/野坂昭如, 吉岡オサム, 能吉利人)
司会:中山千夏
唄:野坂昭如、永六輔、小沢昭一(登場順)

M.Cなど、会場でのなまものの楽しさに近いところがあって、聴くたびごとに耳にするのはうっとおしそうなものだ。
何で永'浅田飴'六輔の声は、こんなに「おすぎ」に似ているのか、とか、小沢昭一はおどけ者の役をしているから、どうしたって一番格好いい役回りは野坂だよなぁ、などと考えながら、結局は毎回、しゃべりも飛ばさず聴いている。
前夜リハーサルしましたと言うわりに、三人そろいぶみの段では、調子どころか歌詞すらあわないていたらく。
こぎれいにまとまったアルバム「絶唱!野坂昭如」よりも、こちらの方が魅力がある。

「大懺悔」は、冒頭から良い。

この御三方は、「昭和ひとケタ台生まれ、花の中年御三家」と称し、ここ何年かの間(野坂が脳を故障する前)に再結成、一度ライブをやっている。行きたくても行けなかったのだけど、DVD化の見込みなど、ないものだろうか。
# 野坂が倒れて沙汰やみになったんではないか、と指摘があった。

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都会の孤独『大人』

大人(アダルト) (通常盤)

『大人(Adult)』(東芝EMI/東京事変)

歩道橋の上から見下ろすテールランプが、十字にみえたのちに、上下に間延びしすぎてみえるのは気のせいだ、と思いたくなる。
どこからかやってきて、どこへかとまっすぐに去る動線が、ひたむきさを思い起こさせるのか、泣くときの一歩手前のように、手指がしわっぽくふやけ、頭からは血がさがるような気がする。
もとより感傷の後押しを求める時に聴いているのだから、いかにも安い感傷に思えるのもしかたがない。
外を出歩くときに似合いのアルバム。

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中立のむずかしさ『ナスカ 地上絵の謎』

ナスカ地上絵の謎―砂漠からの永遠のメッセージ

『ナスカ 地上絵の謎-砂漠からの永遠のメッセージ』(創元社/アンソニー・F. アヴェニ, Anthony F. Aveni, 武井 摩利, 増田 義郎)

京都文化博物館で「ナスカ展」を見た折、解説のたぐいが少なかったので、泥縄だけれど、おぎなうために読んだ。

地上絵がどのように書かれたのか、何のために書かれたのか。方法と理由についての推測は、諸説いりみだれており、未だに決着がついていない様子。
代表的なものとして、意味を空に求める「天空説」と、灌漑や人々の儀礼に由来するものとする「地上説」とで、大まかに分かれるとされ、天空説の権威として、マリア・ライヘが出てくる。
地上絵の解釈をさらっている章で、ライヘに対して懐疑的な描写があるのは、先達を神聖視しすぎることへの警戒からかと思っていた。
後半、著者のフィールドワークのさなか、彼女から告発されたくだりがあり、得心がゆく。以降も、しまいまで、天空説の論者に対しては棘がある。

誰もが皆、見たいものを見たいように、自分の専門分野を地上絵に投影して見ているのだ、と繰り返し本文で書かれているように、本書で書かれる説も、もちろん「答」ではない。天空説に対する、地上説からの反論である。

展示では、特にどの説といって肩入れするわけにもいかず、いきおい、解説もそっけなくなったのだろうとみた。

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愛すべきバカ『ブルース 飲むバカ 歌うバカ』

ブルース飲むバカ歌うバカ

『ブルース 飲むバカ 歌うバカ』(ブルース・インターアクションズ/吾妻光良)

吾妻光良が英語をつかってインタビューする際、それを文章にするにあたり、すべて「直訳調」になる。われわれ日本人が英語をしゃべる際、あちらさんにはこういうカタコトに聞こえてるんだろうな、というのが出ていておかしい。
なかでも、第一章でB.Bキングにインタビューするところでは、そういう「日本語英語」ですれちがいがある。

B.Bキングは音楽にコンピュータを取り入れるのに積極的で、そうすることで「人間がコンピュータに支配される」とは思っていない。あくまでも、テクノロジイは道具なのだし、入力するのは人間だから、と熱っぽく話す。そこで吾妻さんの相槌。
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p.9
吾「ええ、たぶん(筆者は日本の英語教育の歪みからか、外人さんに対するアイヅチとして、何故か"Yeah"とかいう代わりに『アー、Maybe』とか言ってしまうクセがある)」
B「たぶんじゃない。コンピューターは一人で何もできないのだから人間がやらねば(語気荒い)」
吾「たぶん。」
B「たぶんじゃない。」
吾「ごめんなさい。」
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この後、レイ・チャールズの話に移らんとするのだけれど、すっかり萎縮してしまった吾妻さんはうかつに返事ができなくなる。
B.Bは知らないから黙ってるのかと思って、「知ってます?」などと訊く。
知らないわけがないんであって、現場の緊迫とは裏腹に、笑ってしまう。

また、第二章の「ブギ・トゥ・ザ西 ブギ・トゥ・ザ東」では、国内・アジア・欧・米とライブハウスに出かける顛末記。多くは詳細も不明なままに、あれこれ妄想をたくましくして「うーん、すばらしい!」と出かけていく。
たとえばロンドンでは"Ain't Nothin' But theBLUES"という店名に期待。
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p.212
ブルースしか無い、ロックもフォークも無い、ビールもツマミも無い、ブルースしか無い、マディとライトニンの盛り合わせなら出来ますが、キング・ コール刺しはちょっとうち仕入れてないんでね、甘過ぎて日持ちしないでしょ、ええすいませんまたどうぞ宜しく、という様な店なのだろうか。
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ほとんど歌詞にも思えるこのくだりは、日常で「~も・・・も無い」という場面に出くわしたときに、つい、取り入れようとしてしまうくらい気に入っている。

ハゲは、ジャック・ニコルソンや、マルコヴィッチみたいな「額後退型」なら見られるけれど、「後頭部衰退型」はどうもなあ・・・とハゲ差別をしていた自分を恥じるほど、吾妻さんはいい。落ち武者ハゲ最高。

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陽気な社会人バンド『Seven&Bi-decade』

Seven&Bi-decade

『Seven&Bi-Decade』(ビクターエンタテインメント/吾妻光良&The Swinging Boppers)

なあんか、この頃ではこればかり聴いているのは、暑くなってきたのにつれ、体温もあがって、なによりビールが似合うからか。ほんとに気取ってないように見せるのがうまく、かえって格好良い。
全編これ日々の喜怒哀楽をおりまぜた歌詞。
特に「150~300」では、健康診断などの数値をあれこれ気に病むようになったおじさんの、気の毒なのだけれどどこか滑稽なところがうかがえて、すごく好ましい。
(やったるでぃ、と精一杯勢い込んだら、しょうもないことでくじかれて、トサカにくる!!という曲)

しばらく前から、LPサイズの紙ジャケの中を開けたらば、中にはCD。という意味がわからない代物が、店の隅にあり、いまだなくならない。それの逆をねらっているのかなあ、と思ったディスクのつくりも、茶目っ気がある。

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いらない記憶を掘り返すような『カラスヤサトシ』

カラスヤサトシ 2 (2) (アフタヌーンKC)

『カラスヤサトシ(2)』(講談社/カラスヤサトシ)

「江古田ちゃん」は「うまいことを言う」なのだった。「猛禽」「アイドリング」にしろ、笑って済ませることができる。 (※)
我がことのようでいて、我がことでない。
仮に自分と似ているところがあったとしても、どこか安心して見ていられる。

ずうっと前に、大槻ケンヂと中川翔子、たぶん「映画秘法」で対談をしていたのを見たとき、「自分に子供ができたとき、『いつ』楳図かずおを与える か、それが問題だ」と楽しみながら話しあっていた。いわく「いかにも子供が気になって、自分で探し当てたことにも罪の意識を覚えるようなところに、こっそ り、見つかるように隠しておくのが最高だね!」(うろ覚え)
もちろん、彼らはわかって言っているのだと思う。のちのち口に出して、笑いめかして「トラウマ」と言えるような体験は、甘美なものでしかない。
本当に自分にとって忌まわしいことなど、記憶から追いやってしまって、知らないふりをするうちに本当に忘れてしまう。

カラスヤサトシは、ときに、記憶力が良いだけにやっかいな身内のように、こちらが「なかったこと」にしていることを、掘り返しにかかってきそうな気がして、なかば恐いものみたさで読んでいるようなときがある。
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※カラスヤサトシがなにかとライバル視する、『臨死!江古田ちゃん』のこと。
 掲載雑誌が同じ「アフタヌーン」。

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神話にも似た『救済の技法』

救済の技法

『救済の技法』(コロムビアミュージックエンタテインメント/平沢進)

「庭師KING」が好きだ、と思って聴きはじめたのだけれど、「万象の奇夜」「MOTHER」「橋大工」のつらなりは、ひと揃いで聴きなおすほど良い。なんだこのドラマチックさは。

いつも、神話のようだなと思いながら聴いている。
平沢進が神だとか、そういうことではない。神話とはなにかなど、語り起こすこともできないのがもどかしい。

やけに小さくみえる、膨れた球体をつついたら、見てくれのキャパからは到底考えられない量のものがはみでて、もう元にはもどせない。
でてきたものは何にも似ていないのだけれど、もとより世にあふれているものは、どこかしら、まけでてきたものに似ているところがある。
そんな像が頭で結ばれている。逆にはたどれない、という感じをうけるのが、神話を思わせるのかもわからない。

「MOTHER」のはじまりで、ふとった「まりも羊羹」を楊枝でつつくときを思い出すのは、どうやら確からしい。

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ファンタジーと日常が交錯する『クレヨン王国 月のたまご』

クレヨン王国 月のたまご〈PART1〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国月のたまご〈PART 2〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国 月のたまご〈PART3〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国月のたまご (Part 4) (講談社青い鳥文庫 (20-17))


クレヨン王国月のたまご〈PART5〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国 月のたまご〈PART6〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国月のたまご〈PART7〉 (講談社 青い鳥文庫) クレヨン王国月のたまご〈PART8〉 (講談社 青い鳥文庫)

『クレヨン王国 月のたまご』(講談社青い鳥文庫/福永 令三)
たしか「PART3」から、リアルタイムで読んでいました。青い鳥文庫・新装版になってから、表紙絵が差し替えられているのは残念。

(こうして並べてみると、13458は変わっていて、267はもとのままだった)

最近、急に思い出したのは、図書館にて「完結編」が出ているのを知ったからです。PART8で終わりだとばかり思ってました。

「クレヨン王国」シリーズは、月のたまごシリーズの以前/以後で物語の構造がすっかり変わります。
以前は、「ゆきて帰りし物語」で、日常からなにかの拍子にクレヨン王国に足を踏み入れ、成長して帰ってくる少年少女の話でした。(例:「クレヨン王国のパトロール隊長」)
以後は、すっかりなじみとなったキャラクターたちに焦点をあてた、クレヨン王国の「中」の話になります。
面白いのは、前者だとは思うものですが、月のたまごは別にしています。

細かいところは忘れているものの、子供むけだとあなどった本ではありませんでした。

食肉にされるのを嫌がって脱走した、ストンストン・アラエッサという豚と鶏キャラクターがいます。二足歩行をして、喋る。
あるとき、彼らがレストランで食事をするとき、シェフが「わたくしの自信メニューです」と、ストンストンにはミミガー(豚の耳)、アラエッサには鶏料理を供するのです。シェフにまったく悪気はありません。
動物がひとになぞらえてある前提を疑わせるシーンとして、印象に残っています。

ダマーニナという美女が、最終的にはむすびつくに決まっているカップル(三郎・まゆみ)に嫉妬し、三郎に焦がれているところは「王家の紋章」の妹を思い出しますが、後半、彼女の心理描写が書き込まれていくと、つらくなってくるほどです。
ひとりで住む家で、気に入っている乗馬服の上着を干していたら、大嫌いな蛾が、太い胴をふるわせながら卵を産みつけているのを見る。あわてて追い払うも、産みつけられた卵は、爪をたててそぎ落とさなければならなかった。というシーンは、いまでも覚えています。
彼女が終盤で住み替えた家は、森の中に建つ中古の洋館でした。内部は鏡張りで、どこにいても何人もいて見えるような、うまい設計が施されていたものでした。さみしすぎます。

「青コロリ」と称する、だんだん顔が青くなって、青いものを吐き続けては死んでしまう、感染経路不明の伝染病が出てきたりもします。無実の罪でとらわれた、難攻不落の刑務所から脱出する脱獄劇もあります。

児童書に抵抗がないひとは、ひとつの本として、読んでも損はしません。
とはいえ、本には読むに適した時期があるのも事実なのですが。

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クレヨン王国月のたまご 完結編 (講談社青い鳥文庫) そして、完結編が出ているとは、とんと知りませんでした。

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あっ かるい スタッフのおはなし『ヤミナベ・ポリスのミイラ男』

ヤミナベ・ポリスのミイラ男 (光文社文庫)

『ヤミナベ・ポリスのミイラ男』(梶尾真治)

テロでばらばらになった、一流超人のパーツをつぎはぎして生まれた超人ミイラ男。ただし、脳みそはしがない一般人であって、巻き込まれた不幸を嘆きがちとなる。
ミイラ男の能力は、ピンチに応じて臨機応変、あとからあとから後づけで出てくる。場所の設定とて例外でない。

「とすると、この惑星には海があったのですか」
カズヒコは驚いてしまった。初耳だった。ヤミナベ・ポリスの周囲は砂漠ばかりのはずなのに。だが、大怪獣は、海から上陸するものと相場が決まっている。グム・グスは「もちろん」と答える。カズヒコは呆然とするしかない。(p.213抜粋)

いいかげんである。
三流超人キャプテン・パープルは、正義の味方を名乗っているのに、敵側の組織にも人材登録していて、パートタイムでどちらにも味方する。
適当に見えて、どの登場人物も自分が受け持つ仕事には、しごくまじめにこなそうとしている。しまいまで読むと、作家という職業も「仕事」なのだよ、という結論に至っているように思えた。

収録作「恐怖!戦慄!!I・Gマン」では、世の大半の悲劇は「良かれと思って」から生まれている、というテーマもあるのだろうけど、ちっとも深刻でない。まじめくさって読む本ではない、という筋に忠実だ。

こういう作品もあるから、カジシンを評する際に頻繁に使われる「リリカル」という表現にむずがゆくならずに済んでいる。
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梶尾真治は、『黄泉がえり』『思い出エマノン』もいいけれど、いいのだけれど。
『カジシンの躁宇宙』「チョコレート・パフェ浄土」などで、無防備なところを見せて、これでもか、と楽しませてくれる。

笑いを感じさせるものを、愛さずにいられない。

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すべては幻なのです『保育器の中の大人』

『保育器の中の大人-精神分析講座』(朝日出版社/伊丹十三・岸田秀)絶版

古書で買う。

「唯幻論」を言う岸田秀に、伊丹十三が話を聞く体。
世にほんとうのことなどなく、はなから矛盾に満ちている。人が矛盾しているのは生まれもってのものであるし、正そうとして正せるものでもない。

価値を相対的にならべて、ひとしなみに扱うことは、すぐれたものの価値を減じることにもなりかねないと思っているので、全面的にうなずくことはよくしない。
が、ものを言うひとは、いったん言った考えを押しすすめて、なんでもこれで説明がつくでしょう、とつじつまを合わせるのが仕事だから、それに感嘆してまるごと教えをさずかる必要はないよね、とも思う。
毒にも薬にもなる考え方。
唯幻論を幻想なりに、まるごと利用するならば、他人のなすことは幻想だとして軽んじ、自分のなすことは重きにおくとおかしいことになる。
存在の耐えられない軽さに、耐えなければならない。

刊行が1978年とふるいから、さすがに中身はどこかで聞いた話が多いけれど、理屈としては面白い本。
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漫画家の山本直樹は、岸田秀に信を置いているらしいので、こちらでさらってから漫画を読むと、また見る目が変わるかもしれない。

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知らないふりして知っていたんじゃないですか『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』

ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを (ハヤカワ文庫 SF 464)

『ローズウォーターさん、あなたに神のお恵みを』(ハヤカワ文庫/カート・ヴォネガット・ジュニア)

ありふれた悲劇と喜劇がごちゃまぜにして書かれてある。

以前にヴォネガットを読んだときにも、映画「未来は今」(コーエン兄弟)を思い出し、

これを読み終わったときにも、また思い出した。
くだらない世をくだらないままに、おもしろさを受け入れるスタンスのせいなのかどうか、

もうはっきりとは覚えていない。

「未来は今」は、もとが「素晴らしき哉、人生」(フランク・キャプラ)と聞くので、

そちらを観てからもう一度読み直そうかと思っている。

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星新一のルーツでもある『人民は弱し 官吏は強し』

人民は弱し 官吏は強し (新潮文庫)

『人民は強し 官吏は強し』(新潮文庫/星新一)

しばらく前の話で、「外資が株をたくさん買っている企業は、政治献金を禁ずる」禁止事項をとっぱらうしたくを始めました。という知らせを政治面で 見かけた。
そんな禁止事項があったことも初耳のまま、企業面を繰ったらキヤノンが次期経団連のトップになることと、かんたんな企業紹介が書かれてあった。
政治家もずいぶんと露骨なことをするもので、それがありなら何でもありだ。

星一がたよりにした、後藤新平との仲は、蚊帳の外に置かれたものから見れば、願っても持てなかった機会になる。
他人にめぐる機会はねたましく、自分にめぐる機会は努力の結果であるならば、いかに星がアイデアマンであっても、堂々としていればいるほど、嫉妬はいや増すこともあるだろう。
正直者がばかを見るのは良くない世だが、正直だからすべて許されるわけでもない。

がんらい、官吏は効率をめざすものであったはずだから、文中の「すぐれた頭脳が真価を発揮できずに、遊休状態にあるというのは、いかなる意味でも 損失である」(p.98)は、役所のことをも指しているように見える。ルールにのっとって、公正にゲームを運んでいると思ったら、相手はルールを都度つく りかえる役割だった。ゲームの目的も既にかわっている。
あまりな決着が、星新一に持ち越されていった過程も知りたい。

(2007.3.30)
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しかし、役人は本当に不要か、公的な縛りと厳しさとは?
安易な役人批判になってはいけないのだと思わされるのは、こちら。
『クルーグマン教授の経済学講座』(日経ビジネス人文庫/ポール・クルーグマン)

クルーグマン教授の経済入門 (日経ビジネス人文庫)

なぜ、その役割を公的な機関が請負わなければいけないのか?考えてみよう、と問う章があります。

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人類学者からみた世界『文明の生態史観』

文明の生態史観 (中公文庫)

『文明の生態史観』(中公文庫/梅棹忠夫)

内田百鬼園、山本夏彦のような「がんこじじいに思わせて、ちらと茶目っ気がのぞく」文章でいいなぁ、と思っていたら「それを書いたのは若いときだよ」と連れから指摘された。
書かれた歳は措くとしても、好みであるのにかわりない。

p.29~「植民地と英語」のくだりで、大阪駅を通勤につかう際、どうしたって目につくものがあるという。「OSAKA STATION」「POST OFFICE」と書かれたネオン・サインである。

 わたしはまえから、こういうのをみて、まいど憤慨していた。どういうつもりだ。国民の、国民のための、駅であり郵便局であるはずだ。だいたい、 タバコの名前もけしからん。日本のタバコに、PEACEとはなにごとだ。植民地根性もいいかげんにするがいい。わたしは、日本における英語の無意味なはん らんに、かんしゃくをおこしたのである。(p.29-30「植民地と英語」より引用)

インドやパキスタンにおもむいて、帰ってきた際に印象ががらりとかわったことを述べ、文字記号の役割に話がおよぶのだけれど、書き方がつねに、そ のときどきに応じた正直さが感じられる。わからないものはわからないと言う、誠実さがある。「おまえの宗教はなにか」と問われて、さしあたり「仏教」と答 えることにしている際の心情(p.48)なども、どうだ。たしかに、日頃さして熱心でもないくせに、知らずたよりにしているような自分をも見る思いがあ る。
p.104「系譜論と機能論」あたりからは、ぜんたい、文化とはなにごとを指し示すのかと明らかにしようとする。文化は由来をもってとらえようとするのでなく、くみあわさったかたちをみてとらえてみよう、という。

 建築にたとえていえば、個々の材木が、吉野杉であるか米松であるかをいうのは、系譜論の立場だ。できあがった建築が、住宅であるか学校であるか をいうのは、機能論の立場である。それは、文化の素材の問題ではなくて、文化のデザインの問題であり、いっそうはっきりいえば、生活主体、すなわち、文化 のにない手たる共同体の、生活様式の問題なのである。(p.104より引用)

述べられている言説があたらしいかふるいかは知らないが、こうして眼前のものごとを切り分けていく姿勢は、古びることはないだろうと思う。

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自分の「普通」は、往々にして普通じゃない『カラスヤサトシ』

カラスヤサトシ (アフタヌーンKC (425))

『カラスヤサトシ』(講談社/カラスヤサトシ)

カバー裏にも、カバーをはずした表表紙裏表紙にまでびっしり描かれた四コマ漫画。

ひとは自分しか基準にするものがない。
自分をとりまく事物がどうあれ、変わらないものはどうしようもなく変わりえない。
プラスの評価をくだすも、マイナスの評価をくだすも、すべて他人次第になる。

特殊さを売りに、ことさら笑いをとりにいくでもなく「皆そうでしょう?」と共感を押しつけるでもない。
描かれる日常、ひとつひとつは彼の歴史によるものなので、丸ごと共感できるものでないのだ。
けれども、ひとりでなにか考えたりしているときのくだらなさどうしようもなさ、全体としては共感してしまう。

妙な高揚感は、岡田あーみんの漫画を読んだときにも通じるものがある。

このひと、売れたらどういう作風になるんだろう。(2007.1.7)

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漫才のかけあい『メグミックス』

メグミックス 1 (1) (ヤングチャンピオンコミックス)

『メグミックス(1)』(秋田書店/倉島圭)

「下品」と言ってしまえばおしまいの、ぼけ倒す漫才四コマ。

ぼけは、けしてみずから笑ってはならないのです。
途端に面白みが失せてしまわないのは、中田カウスくらい。

「ぼけた」ということをつかむことすら難しくなるほど、元の話から遠ざかっていく頃には、つっこむほうも余程頭がまわっていないことには、ついていけなくなる。
かけあいが進むごとに、崩壊していくつっこみ役は、大脳のはたらきを増幅させる薬品をめぐる、手塚治虫の短篇「カメレオン」(秋田文庫「空気の底」所収)を思ったりもする。
<頭脳というものはとてもエネルギーを食うものでしてね…>薬品を投与され、餌を制限されたモルモットは妙なすがたかたちになってしまうのだった。

たしか、連載時のヤングチャンピオンでは「ハライソ」(丸尾末広)も連載していたので、ふたつを読むのが楽しみだった。「24のひとみ」に、いくばくかが採録されていたけれど、全部ではないような気がする。
※(1)とうたっておきながら、2巻はない。
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その後、掲載誌もあらたにした『24のひとみ』が売れたらしく、チャンピオンコミックスから再発されました。
メグミックス 1 (1) (少年チャンピオン・コミックス) メグミックス 2 (2) (少年チャンピオン・コミックス)

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ときに胸をつく『週刊石川雅之』

週刊石川雅之 (モーニングKC)

『週刊石川雅之』(講談社/石川雅之)

「もやしもん」とはまた別の楽しみがあって、よかった。
笑わせるだけではなくて、いやな感情も書いていこうとする丁寧さがいい。トーンが少なくて描線が多い画面もいい。

第2週め「仮面で踊ろう」
 ひとつのモノから、人によってまったく違ったお話ができあがっていく過程が楽しい。同じモノについて話をしていて、話がかみあっているつもりの家族の話はまったくかみあわない。そのギャップは、悲劇でもあり喜劇でもある。
TV「世にも奇妙な物語」の「Black Room」を思い出した。

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紳士にだまされる『ヨーロッパ退屈日記』

ヨーロッパ退屈日記 (新潮文庫)

『ヨーロッパ退屈日記』(新潮文庫/伊丹十三)

「恐れ入谷の鬼子母神」をうっかり口にしそうになる身では、わかるわかる、とはうかつに言えっこない。
かろうじて、我もと言えるのは、飯田久彦の「ルイジアナ・ママ」で「ロニオリ」と唄われている歌詞はいったいなんであるか、原曲を聴いてみたら「フロム・ニューオルリーンズ」であること明白ではないか、というくだりであった。(p.115)

 >自分の嫌いなものをあれこれ考えるのはとても愉しいことです。美的感覚とは嫌悪の集積である、と誰かがいったっけ。(p.162)

 とあるように、伊丹氏の嫌いをあつめたとも言えるこの本。たんに小言を並べてあるわけでなく、言った以上はやるよ、という決意をあらわしてい る。およそ、何か意見を述べようとする際、自分は棚にあがることはするとしても、棚にあがりっぱなしでほっかむりしている人と、すぐ棚から降りてくる人と は分けるべきでしょうね。伊丹氏は後者でしょう。

「女たちよ!」にも見られた、かくあるべしの態度は、殊に■古典音楽コンプレックス(p.268)にも見られるようで、バッハやモーツァルトを一蹴して恥じるところのない婦女子には、下記のように言われる。

 >つまり、こういう人物は、生理をもって脳味噌の代用にしているわけだ。人生において、優れたものに対する「怖れ」を持たない人、こうい う人は何をやらせても駄目なのだ、とわたくしは思う。得意だとかいうチャーハンだって、まずいに決まっているのだ。(p.271)

いったん、嫌いと決めるのならば、なぜ自分がそれを嫌うのかをあきらかにして、反対を行くように気を配り、より優れたところを望むのが理の当然ではありますまいか。と、氏が言っているように思う。

あとがきで行われる山口瞳との応酬もまた愉しく、ニヤニヤしてしまうのであった。

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その後、『日本世間噺体系』(新潮文庫/伊丹十三)の解説で、伊丹十三は文章でのみ気を張っていたことが書かれる。
うまくだまされていたことになるが、それもまた良しとしたい。

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何を軸にものを見るか『女たちよ!』

女たちよ! (新潮文庫)

『女たちよ!』(新潮文庫/伊丹十三)

女たちよ!と題にうたいながら、その実、大半は男たちに向けられている。
かくあるべしと思う、なぜならばと筋がとおっているうえに、目がとまるものから語り起こしているものだから、説得力に満ちている。ポケットの中の五百円から経済に至るように、マカロニの穴から人をのぞく。

出てくる料理は、いまや、ありふれたものになっているものも多いはずであるのに、自分が食べているのはあくまで形をまねたに過ぎない、まがいものなのだろうかと思わせる。
文字を追うだけで、食欲でそわそわしてしまうからいけない。

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ゲームファンに真剣な『桜井政博のゲームについて思うこと』

桜井政博のゲームについて思うこと Think about the Video Games 桜井政博のゲームについて思うこと 2巻 (ファミ通BOOKS) 桜井政博のゲームについて思うこと DX Think about the Video Games 3

『桜井政博の
ゲームについて思うこと』(エンターブレイン/桜井政博)

桜井政博ファンなので。

私は失礼にも、「大乱闘!スマッシュブラザーズ」(ニンテンドー64)が出てすぐのときは、知りもしない遊んだこともないのに「キャラゲー」と決めてかかっているところがありました。
友達と遊ぶ機会も多い、まだ頭もそこまで硬くない妹が「面白いから!」とごり押ししてくれなかったら、遊んでなかった。

当初、ぱっと見の印象で「キャラゲー」と決めていたのは私だけではなく。小売店でのPOPにも使われれば売り上げも左右される、という「週刊ファミ通」クロスレビューでの評価もぱっとせず。
かんたんに遊べるけど、そこまで。という扱いを受けていたようです。

納得がいかない桜井さんは「スマブラ拳!」をたちあげました。
http://www.nintendo.co.jp/n01/n64/software/nus_p_nalj/smash/index.html

ゲーム初心者にも楽しめるように、間口を広げて、練達者にはより深い遊び方も用意する。
その楽しみ方を、製作者じきじきにアナウンスしたのです。もとからファンだった人、心動かされた人、両方からのメールに、桜井さんは公開書簡のようなかたちで、こまかくコメントをつけてアップしていました(「アンケート集計拳!!」)。

ゲーム写真のキャプションにも、ことばの選び方などがすばらしいのです。圧倒的なユーモア、許容するものも多いけれど、妥協はしない頑固さも持ちあわせています。

宮本茂さんもそうですが、ゲームを安心して指名買いできる方かと思います。
ひとつの事象をとりあげて、「自分は」「他人は」「なぜ」そう思うのだろうか。「おもしろい」と思うものは、なんなのかを詰めていく姿勢は、相変わらず素敵です。
ゲーム好きなら楽しめるのはもちろん、IT系の職業、または仕事に関するコラムとしても、楽しめると思います。

むかし、アンケート集計拳!!に投稿していたので懐かしさも手伝ったレビューになりました。

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桜井さんは、その後HAL研究所を辞職、有限会社ソラをたちあげました。

メテオス大乱闘スマッシュブラザーズX
は、HAL研以降のプロデュースになります。メテオスは手に入りにくいのが難です。

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2008年8月10日 (日)

この不自由な道具について語られた『邪魅の雫』

邪魅の雫 (講談社ノベルス)

『邪魅の雫』(講談社ノベルス/京極夏彦)

思いあがった人間はバベルの塔以降、いっこうに行動を一にできない。
おなじ言葉をもちいているから、意思の疎通はできているのだと思っても、はなはだしい勘違いが生まれては、少しずつ思うところはずれていく。

本編では、くりかえしくりかえし「邪悪」「よこしま」「雫」のモチーフが出てくる。登場人物が思うこと語ることはもちろん、風景やモノの描写にも尽くされる比喩は、これは技巧によって凝らされた描かれた世界なのだと、くどいほどにうったえてくる。

一方で、いくら言葉があってもどうにもならないこともあり、自分がつかう言葉の意味にこだわることで、ことを見誤る場合も多い。

p.618「殺してしまった――か。何がしまっただ、と思う。殺そうと思って殺したのなら、ただ殺したと云えばいい。しまったの部分に、何か言い訳がましいものを感じてしまう。」

たしかに、彼の言い分はもっともに聞こえるのだけれど、事件の要素を読むには誤ってもいる。

人をひとり挟むごとに、どんどん言葉の意味は変わっていく。少しずつ、その人ごとの解釈がさしはさまれ、積みあがった言葉は、斜塔のように傾いてゆく。

一連の京極夏彦作品の中では、もうワンテーマと話の飛躍が少なかったことが食い足りなくはあるけれど、前作よりは良いと思う。

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一ページにまとめて怠りない『図解雑学 建築』

図解雑学 建築―絵と文章でわかりやすい! (図解雑学-絵と文章でわかりやすい!-)

『図解雑学 建築』(ナツメ社/羽根 義男

「カンニングペーパーをお作んなさい」
他でもない、担当の先生が言うものだから、すわ何のことかと教室はざわめいた。
「ただし、使ってはいけません」

いわく、ちいさな紙に、必要にして充分な情報だけ詰めこむには、わかっていないとできない。

どうしたら役にたつカンニングペーパーができるか、考えているうちに知らずに覚えている。

限られたスペースに過不足なくおさまっているのは、見ていて気持ちがいい。
内容も、門外漢からすれば、おどろきに満ちていた。<図解雑学>シリーズは、本屋でいろいろ眺め、あたりはずれがあるのはわかった。これはあたりの部類に入ると思う。

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2008年8月 9日 (土)

ことばに嬉しくなる『ゲーテさん こんばんは』

ゲーテさんこんばんは (集英社文庫)

『ゲーテさん こんばんは』(集英社文庫/池内紀)

なにかの翻訳を、どこかで見かけて「この人が書いた翻訳じゃない文章を読みたい」と、ぼんやりと長期にわたって探していたら見つかった。

ゲーテさん(と呼びたくなる)は、とってもまじめで一途で、本人が意図しないところでたまらなくキュート。
それ以上に、池内紀の文章を堪能しました。「どっさり」「ごたつく」であるとか、近頃あまり見ないことばを見かけると嬉しくなってしまう。
が、私がふるめかしいことばを好むのも所詮つけ焼刃でしかない。

 p74
ゲーテは日ごろ、ごくつましい生活をしていた。生前つくられた彫像の一つは、身につけたフロックコートが左前になっている。ボタンのつくところが反対だ。 彫刻家がまちがえたとされているが、私はそうは思わない。以前、人々がよくしたように、色がはげると、仕立て屋にたのんで服を裏返しにしてもらう、色ぐあ いは新着だが、ボタン穴はかえられない。
 ゲーテもまた着古したフロックを裏返しにして、二度目のつとめをさせていたのではなかろうか。

 そうした「仕立て直し」の経験がなく、つたえ聞いてもいないために、この解釈はおもしろくもあり、まったく思いつけないだろう自分にがっかりもする。

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IT業界のOB訪問『SEのフシギな生態』

SEのフシギな生態―失敗談から学ぶ成功のための30ヶ条 (幻冬舎文庫)

『SEのフシギな生態』(幻冬舎文庫/きたみりゅうじ)

続編「SEのフシギな職場」を先に読んでしまったのだけど、こちらの方がより「業界の話」している。

あ~~そうなのか~~~と思うことしきり。
システム屋さん、技術屋さんのモノの考え方は、どこまでが職種による特性で、どこまでが個々人の特質なのだ?と迷い悩んでいたので、一部分は霧が晴れた思い。

相手とのやりとりで、状況判断で、「先を読めなかった、ここが悪かったのだな」と自分がうつべきだった一手を考える「POINT」は、各事例を具体的に掘り下げていて納得。よく、こんなに冷静に自分を見られるものよと感嘆。

業界の話から、やがては社会人としての心構えに。
決して新人だけに向けているわけでないのも、また良いところ。

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自分も含めてよく見る風景『SEのフシギな職場』

SEのフシギな職場―ダメ上司とダメ部下の陥りがちな罠28ヶ条 (幻冬舎文庫)

『SEのフシギな職場』(幻冬舎文庫/きたみりゅうじ)

仕事がデキて、苦労人なていの主人公。
ヒトゴトじゃない!
「仕事がデキる」を除いては。

新書「頭がいい人、悪い人の話し方」も、「人のふり見て我がふり直せ」「こんな困った人にぶち当たった時のワンポイント」という構成になっていたけれど、こちらの方が断然骨身にしみるのは、他人に厳しい以上に自分に厳しくあれ、というスタンスを、だまって示しているから。

まったく挨拶をしない上司に「いったいどこまで挨拶しないもんなのか」試そうとするガッツ。
部下にミスの責任を押し付けて知らぬふりの上司の下で、とにかく納品にこぎつけられることを一義に「失地回復がスムーズなものであれば、それは逆 に信頼を得る手段ともなり得るもの。失点を加点へと変えるべく、ここはがんばりどころなのです。」とっとと頭を切り替えるところ。

まだまだまだ自分に甘かったな、と思うことしきりなのです。
あるある(いるいる)と笑う一方で、ぜんぜん笑えない。でも元気がでる。そんなところまできっちり仕事人してる本。

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きれいな骨になるまで『小さな骨の動物園』

小さな骨の動物園 (INAX booklet)

『小さな骨の動物園』(INAX出版)

もとは巡回していた展示会の図録。
うっかり見損ねたのがくやしかったあまり、これだけでもと買い求めた。

蛇の細かい肋骨など、単純に造形の楽しさおもしろさに見惚れたのちに、収録されたエッセイでそれら標本がつくられる過程に目をむけることとなる。
おそろしく手間がかかっているのだ、という苦労だけの話ではない。どの文章からも、骨が好きで好きで、心から楽しんでいる!という思いに満ちている。
仕事を楽しくんでしまっている人の話を聞くのは、いつだって楽しい。

「鯛の鯛」の存在は聞きかじったことがあったけれど、見たことはなかったので見ることができた。
猫のペニスにはトゲがあり、出し入れする時にはメスはとても痛い。という話は、前にどこかで見て知っていて、ここで目にし、おまけに各動物のペニスの骨まで見るとあらためて興味深い。

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化粧品で「ボビイブラウン」というブランドで、アイボリーがかったアイシャドウの名前を「ボーン」と名づけているのは、センスがいいと思う。

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時間軸までつくってしまった『トゥルーデおばさん』

トゥルーデおばさん

『トゥルーデおばさん』(朝日ソノラマ/諸星大二郎)

諸星大二郎は、お話をつくるのが上手を通りこして、童話までつくってしまった。
「お話」「童話」、ことばの言い替えに過ぎないかに見えてそうでない。
最近つくられていま語られているのに、遠いむかしからあったかのような顔をしている。つくられた途端に自然に古びている。
グリムのパロディというよりも、こういう話が前からあったように思えてくる。

「夏の庭 冬の庭」「ブレーメンの楽隊」は、下敷きを意識しているのがわかるけれども、他はもはやもとの話とは関係がないといってもいい、別のものとしておもしろい童話。

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高潔な漂流者を描く『無人島に生きる十六人』

無人島に生きる十六人 (新潮文庫)

『無人島に生きる十六人』(新潮文庫/須川 邦彦)
ときは明治、ところは太平洋。
ことばが満足につうじなくとも、外国人にうらやまれる気風をもつ16人の船乗りがいた。不運にみまわれ無人島にながれついた彼らは、いかように難を排するか。

理性と知恵のもとに、無人島でもあわてず騒がずテキパキと、今やらねばならないことを片づけていく様子。どんなときでも、きまりごとを守ろうとする姿勢は、見ていてじつに気持ちがよい。
死活問題の「水」「食糧」をどう調達していくかの過程、随所に顔を出す海洋豆知識も楽しい。

本当の話が下敷きなら、極限状況でそんなにきれいごとばかりでは済まないだろうと言うは易い。が、秩序は壊れるためにある、人間の本性は邪悪なものである、とばかり考えていては、この憂き世はつらいものでしかない。

  ものごとは、まったく考えかた一つだ。はてしもない海と、高い空にとりかこまれた、けし粒のような小島の生活も、心のもちかたで、愉快にもなり、また心細くもなるのだ。(176頁引用)

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極限状況で秩序がこわれていく無人島ものなら『蝿の王』(新潮文庫/ウィリアム・ゴールディング)『漂流教室』(小学館/楳図かずお)をお薦めする。

蝿の王 (新潮文庫) 漂流教室 (1) (小学館文庫)

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男男女、女男女のすれちがい『臨死!江古田ちゃん』

臨死!! 江古田ちゃん 1 臨死!!江古田ちゃん 2 (2) (アフタヌーンKC) 臨死!!江古田ちゃん 3 (3) (アフタヌーンKC) ×(ペケ) (1) (別コミフラワーコミックス・スペシャル)

『臨死!江古田ちゃん』(講談社/瀧波ユカリ)

女友達からのいただきもの。
友はいったい何を考えてチョイスしたのか、私を江古田ちゃんにそっくりだと考えてのことなのか、これに感情移入していてはいけない、などと考えてぐらぐらしました。
アフタヌーンでの連載なのに、レディースコミックで連載していてもおかしくない赤裸々さ。

絵に描いたような「かわいい娘」「もてる娘」には、どこをどう間違ったのか、似ても似つきません。策略という気づかいが足りないだけで、真っ向勝負の不器用さがなせる業なのだろうか。

そういう女子の生態を描いた漫画。
男性はいまいちピンとこないかもわからない。
辛酸なめ子とも似たスタンスだけれど、彼女は、やや容貌に関したコンプレックスがにじむので、こちらの方がからっとしている。

おそるおそる友に訊いてみたら「引かれるかなと心配していた」らしく、私からしたらソツがない彼女でも、こういう表現を面白がる下地はあるのだな、と意外だった。

たぶん、『ペケ』(小学館/新井理恵)を面白がる人と、読者層は少し重なるはず。

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これが3巻になると、男女のすれちがいも遠く、急に江古田ちゃんの非正規雇用が目立ってくる。 出版社がはやりと見たものだろうか。「キャッチにすら避けられる」「キャッチに説教する」話が良い。

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甘い傷をつける『おろち』

おろち 1 (1) (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4) おろち 2 (2) (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4) おろち 3 (3) (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4) おろち 4 (4) (ビッグコミックススペシャル 楳図パーフェクション! 4)

『おろち(1)』(小学館/楳図かずお)
私が持っているのは秋田書店の漫画文庫で、むかし読んだのは秋田書店(たぶん)の愛蔵版みたいなサイズで「うしろの百太郎」「恐怖新聞」などと同じ版型。

もよりの児童図書館の書棚に背を並べていた。

小学生の頃だった。読むのをやめればよかった、と何度も思った。
「姉妹」
美に対する女の執着と、何を犠牲にしても何かを守りたくなる時のなりふりかまわなさと醜さ。楳図さんが結婚しないのは、何とはなしにわかるような気もします。岡崎京子の「ヘルタースケルター」に感銘を受けた人は、これもどうぞ。(逆もまた然り)
「ステージ」
こどもの言うことは、どんなに深刻なことでも信じてもらえないことがある。ことばが通じないことを一生をかけてどうやって消化していったか、の過程が息づまる。
「カギ」
これを読んだあと、窓に「たすけて」と鏡文字を書けるように練習した覚えがあります。「日頃からうそつきだったら、オオカミ少年の言うことは周り から信じられなくても自業自得」と言うのは簡単。オオカミ少年側からの心理描写を丹念に追っていくのを読むと、人から信じてもらえない疎外感に、心底ぞっ とする。

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ひいきも顔をのぞかせる『詩歌の待ち伏せ(2)』

詩歌の待ち伏せ 2 (文春文庫)
『詩歌の待ち伏せ(2)』(文春文庫/北村薫)

まさか、自分が愛してやまない山本夏彦が、ひょんな流れでひょっこり顔を出すとは思いませんでした。
おかげで、ショヴォーの作品集が福音館から出ていることを知りました。買いに行こう。 (※)
でも、いま、ひらがなまじりの児童文学を読んで、果たして十全に楽しめるんだろうか。こどもをコドモ扱いしていない児童書は大人でも楽しめる、とはむかしから思っているけれど、やはり子供の頃に味わうインパクトとは異なります。
そんなようなことを、北村薫も本書で言っているので、胸がすく思いがしました。
子供時代の読書について思うところは、ほぼ私と重なります。
「ハードルを下げることは良いことか?」についても、ほぼ思うところは一になります。
ゆとり教育はおためごかしです。

詩歌をよすがに、どんどん話がひろがっていくダイナミズムがここにはあります。

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年をとったワニの話―ショヴォー氏とルノー君のお話集〈1〉 (福音館文庫)

『年をとったワニの話』(福音館文庫/レオポルド・ショヴォー)

希代のコラムニスト、山本夏彦が訳した『年を経た鰐の話』(桜井書店)は、夏彦翁がなくなった後にいちどきり再販されました。吉行淳之介なども称えたものです。

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「けりがつく」ことの快感『隣りの女』

隣りの女 (文春文庫 (277‐4))

『隣の女』(文春文庫/向田邦子)

いつも書き出しが唐突で、なんの話かと思わせる。
登場人物のどこか一点に、ぎりぎりまで近づいていたカメラが引いていくように、

徐々に何を言わんとしていたかが見えてくる。

そういう書き方をする作者だと構えてはいても、引きこまれるのは毎度のこと。

いやな気持ちにさせるのがうまいなまったく。
と思うのは、あんたそんな本当のことを言っては、
とためらうようなところまで、主人公の本音をこまかく丁寧にさらってゆくため。

「友の失敗を悲しみ、友の成功を喜ぶ」ことは、言うほど易くはない。
どこかで失敗を喜び、成功をねたむ部分がある。

主人公らは、そうした「なかったこと」にしたくなるような感情も、しっかりふまえてから行動にうつし、何事かをはっきり結論としてはじきだす。
読み終わったあと、いっそすっきりしているのは、主人公にいやなことも考える自分を重ね、なんらかの結論を出せる救いまで勝手に見出しているからかもしれない。

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黒人ブルースが受け入れられる始まり『ワン・ナイト・スタンド』

ハーレム・スクエアー・クラブ 1963

『ハーレム・スクエアー・クラブ 1963』(BMG JAPAN/サム・クック)

もっと聴いていたいのに、終わっちゃった。
聴き終わるとさみしい気分になるのは、まるで祭のあとみたいで、やみくもに楽しかった気持ちが残っているぶんだけ、屋台が解体されて人波も引いていく様子が耐えがたいのに似ている。

リトル・リチャードのテンポの良さも好きだけど、JBのコッテリ味もいいけれど。
甘い声と割れた低音がちょうどよくまじって、客の盛り上がりまで含めて音楽になってしまってるこのアルバムはとてもいい。

たまたまレコード屋で視聴したのが、きっかけ。

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そうだ、国語の先生だった。『詩歌の待ち伏せ(1)』

詩歌の待ち伏せ〈1〉 (文春文庫)
『詩歌の待ち伏せ(1)』(文春文庫/北村薫)

夏木マリのアルバム「13シャンソンズ」収録曲「鎮静剤」がよかったので、いままで堀口大學を読んでいないことを残念に思った。遅まきながら書店で探し、どの出版社から出ている詩集にしたものかと悩んでいるところ、この本が文庫化されているのに目が止まって買い求めた。
読んでいくと「集団」アンドラージで、件のアルバム曲「港のマリー」が思い出された。マリーはこういう女だったかもしれない。待ち伏せにあったような気になる。

一見関係のないところで、関係があるもの、関係があるようにみえるもの、解釈の助けになるものに当たることがある。北村薫の張る網の目はとても細かく、うつ網は大きい。解釈次第と言ってしまえば終わりの話を終わりにせず、解釈をつきあわせて妥当なものをさぐっていく。

北村薫は、先生である。経歴は考慮の外に置くとしても、語り口でそう思わされる。自身がとてもよく知っていることを、生徒に「なんだ、こんなこと も知らんのか」と怒るのではなく「みなさんとっくにご存知だとは思いますが、こうでしたよね」と説いている。聞く者の知性に信頼を置いている。おだやかだ けれど、求めるものは高い。
生徒が勉強が足りていないことを恥じて、こっそりと至らないところを埋めようという気になるのは、こういう先生ではないかと思っている。

詩歌に興味がなかったとしても、たぶん楽しい本です。

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13シャンソンズ

『13シャンソンズ』(徳間ジャパン/夏木マリ)
夏木マリは何枚か聴きましたが、これがベストです。

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所サンの文章例『四字列語』

『四字列語』(新潮社/所ジョージ 絶版)

もともと、所ジョージの唄は好んで聴いている。
本も出しているのは知っていたけれど、新刊本屋ではぜんぜん見つからない。タレント本、はやりものとして片づけられているとしたら惜しい話だ。

要約すると面白さが減じてしまうので、「まえがき」の冒頭から抜粋する。

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  この本を読んでいるあなたが一番エライ、そして、そのとなりの人、前の人と、生きている人がそうとうエライ。この本は、ここからはじまります。エジソンは電球を考え、それをみんなが使う。この「みんな」が一番、大事なところです。みんなが求めなかったら、エラクもなんともないわけです。生きている者がいて話になるのですから、みなさん、我々は死ぬまで生き続けようではありませんか。
  昔の人が四字熟語をつくりました。たまに使います。学校で習ったおぼえもあります。そうとう昔の人のものなので、味がこくなってます。少し うすめてあげようかな、と思い、私がここに「列後」として放ちます。だいたい、いつ頃から、この熟語というもの、つくらなくなってしまったのでしょう。時 代時代に書く人、いなかったのでしょうか。いても相手にしてもらえなかったのかなあ。お願いだから、相手にして。

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もっともだ、とうなずかせておいて「死ぬまで生き続けようではありませんか」でずっこけさせたり、「お願いだから相手にして」で急に弱気になったりと、緩急がついていて楽しい。
本文は、所さんが辞書を引き引きこれはという熟語をみつくろって、韻を踏んだ別の熟語にしたてあげている。おそらく。もとの熟語の意味と少々かか わってくるようなものがあっても、大部分はほとんど関係ない。平和な生活感にねざしています、とまえがきでうたうとおりで、時には怒りなんかもあるのだけ ど、笑いに転化させてしまっているのが、いい。

本文からも、ひとつ抜粋

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  「虚胸無情」(きょきょうむじょう)
  虚胸とは、パットを入れた見せ掛けだけの大きな胸。無情は、思いやりのない事。つまり、実は小さかったと分かった時の男性の気持ちを思いやらず、邪悪に胸を大きく見せる行為。転じて、後のことを考えない無鉄砲な行いを指す。

  使用例=「知り合いの店を紹介したけど、ちょっとほめすぎたので虚胸無情って感じ」など。

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私はヌーブラが流行ったときに、「いざ」という時にはどうするのだろう、とハラハラしていたものです。

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「京都人」というマボロシ『京都人だけが食べている』

京都人だけが食べている (知恵の森文庫)

『京都人だけが食べている』(光文社 知恵の森文庫/入江敦彦)

「関西のうどんを食べつけている人は、東京のうどんを食べに行くとつゆの黒さに唖然とする」等々、いつのまにやら「関西=薄味好き」という情報がインプットされながら京都に住んで幾年。

京都府下出身の、ツレの好みが不可解でしかたなかった。「天下一品(通称てんいち)」のラーメンを無性に欲し、ときには何日か連続で食べても飽きないであるとか。「志津屋」のカツサンドをこれまた愛しているとか。
前者は、正体不明のどろどろシチューのようなスープでものすごく胃にたまります。もはやトンコツ醤油塩のカテゴリで区別不可能。
後者は、ビフカツがパンに挟まっているのではなく、「パンがビフカツに挟まっている」恐るべきボリューム。
他にも、京都駅近く「新福菜館」のラーメンスープは「生醤油ちゃうの」という黒さであるし…。

あっさり好きは幻想か?京都人の食の好みって?という一端を垣間見させてくれる本。私はこれを読んで、ツレの好みの裏づけがとれた気がしました。もちろん、食ガイド本としても使えます。「るるぶ」なんかとはちがう、地元の人が愛する店が紹介されています。

ちなみになぜわざわざ「京都府下」と断ったかというと、碁盤の目に整備されている京都市どまんなかは「京都」と称するが、それ以外は「京都」では ないのだそうです。なんて頑固な。と思っていましたが、古典をみると確かに平安人も同じ意味で「京都に出勤する」と言っているのです。さすが「先の大戦」 が応仁の乱の街だ。

◆この本には載っていないものでお薦め
北野天満宮近くだと・・・
「三宝」の餃子とラーメンがセットになった定食
「粟餅どころ 澤屋」のきなこ&あんこの半々にしたやつ(なにより、作られる過程の連携プレーを見るのが楽しいのです)

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もっとも大事な相性『おいピータン!!』

おいピータン!! 4 (4) (ワイドKC キス)

『おい ピータン!』(講談社/伊藤 理佐)

私の両親はあまり「趣味があう」とは言いがたい。

音楽は邦楽派と洋楽派、映画は洋画派と外人の区別がつかない派、安いものを買って喜ぶ派といいものを欲しがる新しもの好き。
なのに、結婚してから何十年も経っても仲がよいのかいぶかしく思って尋ねたことがある。
母親から「結婚して日々の暮らしをともにする場合は、そんなことよりも食べ物の趣味が合うことの方が大事」という返事が返ってきた。
いわく、自分の大好きな料理が、ことごとく相手の大嫌いなものだとちょっとつらいだろう、とのこと。

言われてみると「食」に対する思い入れは、ほかのことよりも大事かもしれないし、毎日のことであるし、生活習慣や考え方まで知れてしまうこともある。

そんな「食」にまつわるこもごもの感情を丁寧に拾ってお話にした漫画です。
扉の一コマで、何の話かと思わせる「つかみ」がとても巧く、話の展開も納得させられます。こまかいギャグも、いい。

「他人の家から香ってくる、夕食の匂いを当てて喜んだことがある」「接客や雰囲気で(場合に応じた)お気に入りの店がある」「大好物にはあらがえない」
なんてなことに共感できたら、手にとってみてください。

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ひねくれているようでまっとうな『人生を救え!』

人生を救え! (角川文庫)

『人生を救え!』(角川文庫/いしいしんじ・町田康)

人生相談の回答が、途中あれこれとうねりながらも順当な結論におちつくさまは、

大筋合意の積みかさねでなりたっている世は、なんとあやうい奇跡のようなバランスであることよよよよ、と思わせる。
結論だけいっしょだとしても、そこに至る道は山ほどあるのだもの。

よくもみんな仲良くやってられるものだ。、と感心するほかない。
ときおり、過程と結論をごっちゃにした人どうしが「言った言わない」の喧嘩をする。

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ノンフィクション作家が見た陽水『満月 空に満月』

満月 空に満月 (文春文庫)

『満月 空に満月』(海老沢泰久/文春文庫)

小学生くらいの時に陽水を聴いたきり「暗いなぁ、良さがわからんなぁ」というイメージが拭えず、

最近ようやっと「UNITED COVER」で「歌がうまい」とわかった程度。
そんなでも、おもしろく読めてしまう伝記。
ひたすら「こんなにすごい人なんですよ」と褒めそやすでもなし、「スターも所詮ふつうの人間なんですよ」とこきおろすでもない書き方が心地よい。

「エピローグ」で、
金をたくさん使ったからといって精神性が損なわれるのか、いや損なわれはしないだろうし、そんなもので損なわれるようならばたいした精神ではないのだ。しかし自分の育ってきた環境からすると、どこかひっかかるものがある
と、いうようなことを長々と語っているところなどは、私自信あれこれくよくよ考えてしまうタチなので共感を抱いたせいもある。

こんな薄い本で、書き飛ばした感じがまったくないのもすごい。

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音のない爆発『家族ゲーム』

家族ゲーム
『家族ゲーム』(監督:森田芳光、出演:松田優作)

知らない人に愛想をふるのは割と簡単なところがある。が、ある程度密に関わる人相手だと、相手にとっての「地雷」って何か、「ツボ」って何かを探る必要が出てくる。
それを言われると猛反発しちゃうよ、許せないよ、という「地雷」と
そこをわかってくれると嬉しくなっちゃうなぁ、という「ツボ」

つきあいが短いうちに、地雷をつついてしまっても「まだ仲が浅いんだから…」で済む場合もある。悲劇なのは、地雷が何なのかわからないままに、つきあいだけが諾々と長くなってしまった状況だと思う。
何を言ったら相手が機嫌を損ねるかわからないから、日常会話で話をふることすらためらわれてしまって、どんどん相手がわからなくなっていく悪循環。
そんな息づまる関係が、登場する家族にはある。

一方で、家族に関わってくる家庭教師は、いろいろ話をしてみても最後まで地雷がわからないタイプ。同じ物事に対しても、その時々で相手の反応が180度変わるような人だと、どっちが本当か測りかねるでしょう。そういう人。

独特の自分論理でふるまう家庭教師と、他人との距離に悩み嘆息する家族。
叫び出したくなるような閉塞した状況を、叫ぶのではないかたちで表現したのが、ラストの食事シーンなのだとみた。

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野放図な青春『初体験リッジモント・ハイ』

初体験 リッジモント・ハイ (ユニバーサル・セレクション2008年第8弾) 【初回生産限定】

『初体験リッジモント・ハイ』(1982/監督:エイミー・ヘッカリング、出演:ショーン・ペン、フィービー・ケイツ等)

「若さ」というものは可能性だ、愚かだ、エネルギーだ、などなど人によって定義がちがうけれど。そんな漠然としたものを、漠然としたままに、お話として再現してしまっているのがすごい。

この映画から、乱暴に一要素だけ切り取るならば「性のことで頭がいっぱいだった頃」を描いた青春映画ということになる。
但し、「下ネタらしい」という評判と「前髪が立っているCM映像」を見れば正体がナンなのかは瞬間でばれてしまってしょうもないし、そうした一発ギャグ以上のものには乏しかった『メリーに首ったけ』とは違います。

エネルギーには溢れていても、方向性が定まらないから何をしたらいいのかわからない。どこに振り向けたらいいのか見当もつかない。わからないから とにかくいろいろやってみようともがいては、端から見ればとんちんかんなベクトルに頑張ってみたりする。バカバカ!と思いつつも、登場人物は一生懸命だか ら決して憎めない。

自分の経てきた経験とかぶるようなエピソードがなくっても「こういう時代がたしかに自分にもあった」と思ってしまう。

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