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2008年11月

2008年11月19日 (水)

人生は、感じる人間にとっては悲劇であり考える人間にとっては喜劇『大統領の最後の恋』

大統領の最後の恋 (新潮クレスト・ブックス)


『大統領の最後の恋』(著:アンドレイ・クルコフ,訳:前田和泉/新潮社)

目標から逆算して、ありうる手段の中で最適なものをえらび、達成せんとする。どう思うかなどの感情は、この際、切り離そう。 そうした行動をさして、政治的だといえるだろうか。

物事を額面どおりに受け取るひとにとっては、人生は予測がつかないことの連続であり、状況におおきく左右されて不幸におちいりやすい、とはいえるのかもしれない。

ひとりの悩める青年期、地位を得た壮年期、大統領になった老年期、三つのパートが相前後して話は進む。

青年は、自分は生き方がからっぺたらしいと悩んでいる。世の中は、実務的な利害関係で動いており、自分の思惑はまったく蚊帳の外にある。
途方に暮れるままに押し流されて結婚したり離婚したり、家を得たり失ったりするうち、どうやら処世のコツのようなものを学びとっていく。
国外に逃れたいばかりに夫と離婚したかと思えば、自分の都合で舞い戻ってくる友達の娘と母親は、別れを突きつけられた夫側の気持ちなどわかっていない。
夫たる老人と友達だった自分の方がよほど、良き理解者だったろう。
本質にせまることなど、実際的なことを重んじるなら無意味なことなのだと、青年は徐々に気づき始める。

共同住宅で鈴なりにつけられた電球がある。各部屋の住人に所有権があるため、勝手に消しては気分を害される。今後の関係にさしさわらないよう、注意深く電気を消す青年。
次の章で、既に地位を持った壮年に、弟が問う。
何で賄賂をもらわないのか、害のないひとだけを選んでもらえば良いのに、とふしぎそうである。
受け取ったのち、なんの影響もないと考えるならばかだ、そんなこともわからないのかと弟を叱咤する。

弟は、さしておかしなところは無さそうに見えるのに、心を病んでいるとされて、むかしから病院に通っている。
思惑と行動は必ずしも一致せず、判断されるのは表向きの行動のみである。そうした世の中との折り合いがつけられるかどうかが、兄と弟ではっきり分かれる場面だと思う。

感情と切り離された、人生の舵取りがうまくなっていく過程と、立場があやうくなるのとともに感情が揺り戻しをかけてくる過程が、交互にたちあらわれる。
目的を果たすために「エジャキュレート」を行う壮年のくだりでは、悩めるかげはないのが印象に残っている。

男は一生で二回、最初と最後の恋をする。
どこかで聞いた話を、登場人物が言うところからタイトルにつながり、最後の相手は誰か、と考えながら読むことにもなる。
自分はうまく世をわたっている、と考えるひとが読んだらどう思うだろう。

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反転する物語『コンゴ・ジャーニー』

コンゴ・ジャーニー (上) コンゴ・ジャーニー 下 (3)

『コンゴ・ジャーニー』(レドモンド・オハンロン,訳:土屋 政雄/新潮社)

アフリカはコンゴ民主共和国の探検記。
レドモンドとラリー、二人の学者は、モケレ・ムベンベという正体不明の生き物を探して森の奥にむかう。

耳慣れない、見慣れない固有名詞がたくさん出てくる。
食べて寝て排泄して、森の中での一日を日記のように詳しく書く描写は、固有名詞に慣れさせるためかと思う。
「マニオク」という植物を常食にしているが、食事の場面は義務感に満ちている。
飽きも手伝うにせよ、水分や脂分からは程遠い、でんぷん質のものなのではないかと察する。
(のちに、乾燥の代名詞として使われているのをみる)
そうした、説明するための描写は少しくどいかもしれない。

本筋は「反転」を書く物語だと思う。

A まじない師から託宣を告げられ、疑いをもって理性でのぞむレドモンド
B 率先して不満をぶちまけることで、むしろ旅行のガス抜きにもなっている、欠点だらけの相棒ラリー
C 西洋の大学を出て、コンゴがたちおくれていることをじれったく思いながらも、エリートの自負を持つ水先案内人、マルセラン

レドモンドは、ジイドが「アフリカの川くだりは見るべきものがなく退屈だった」と書いた文を思い出し、あの文豪ですら見えていないものは多かったのか、と目の前のものを写しとろうとする。
ジイドがレドモンドによって上書きされたのをなぞるかのように、森の奥に向かう下巻では、上巻のエピソードが上書きされていく。

C' マルセランは村の血のつながりから逃れられず、徐々に西洋人への反発をあきらかにする
B' ラリーは他のひとなど及びもつかない、すばらしい人だという案内人の告白
A' 村の誰よりも、まじない師に近いとされるレドモンド

レドモンドは無神論を標榜し、現地の文化に理解を示しながらも、キリスト教への批判には擁護もする。
宗教に対して迷いがありながら、物の霊性はなんとなく信じてしまう日本人ゆえか、彼が「お前のよってたつものは何なのか」と質されるラストは、他人事に思えないところがある。

森を切り開き、モケレ・ムベンベが見たいという西洋人を招いて、テーマパークを作ればいい。金も落ちて村もひらけるだろう、とこぼすマルセランからは『ジュラシック・パーク』を思い出す。
マイクル・クライトンが亡くなったのは、つい先日だった。

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陽気なサボテン兄弟による"映画の映画"『サボテン・ブラザース』

サボテン・ブラザース (ベストヒット・セレクション)

『サボテン・ブラザース』(監督:ジョン・ランディス、出演:スティーヴ・マーティン、チェビー・チェイス、マーティン・ショート)

そもそも、飲みに行った時にバーテンダーに薦められた映画だった。吹替え声優の広川太一郎が大好きで、他に『戦国自衛隊』(漫画)も薦められたのをおぼえている。
ようやく吹替版で観た。

村が略奪の憂き目にあるため、助っ人を捜すために町に来た女。ろくな金も持たず、勝手もわからず、荒くれ者にあしらわれるばかり。
教会でかかっていた西部劇で見かけたヒーローの勇敢さに打たれて、劇中人物に助けを求める電報を送ることにした。
かくして「映画会社」の「俳優」宛てに電報は届けられる。

前提からしてずれているので、駄目な人は駄目かもしれない。
登場人物が総出でとぼけているのを楽しめるなら、楽しい。

「ナーダ」って知ってるか?といわれて「灘・・・?日本酒の」
「あの飛行機はどこへ飛んでいくんだろうな」「少なくとも火星ではないんじゃない?」(以下省略)
というような、日本語に置き換えるときに考えられただろうやりとりが、あちこちにある。

リーダーなのに情けないところもあるラッキー(スティーヴ・マーティン)、しっかりしているようで大間抜けなダスティ(チェビー・チェイス)、ふ ざけているのに決めるときは決めるネッド(マーティン・ショート)が「特攻野郎Aチーム」のハンニバル、フェイス、モンキーに重なって見えるときがあっ た。
かのドラマも、基本は「悪者に虐げられている人を救う陣地合戦」で、西部劇の趣がある。

ドラマ「踊る大捜査線」で「われらスリ~アミ~ゴ!」と名乗っていた三人組は、これが元だろうか。

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被害者もあり、探偵でもあり、犯人でもあった『ミステリーを科学したら』

(文庫ともに絶版)

『ミステリーを科学したら』(由良三郎/文藝春秋社)

推理小説を読んでいるというと、論理でモノを考えるたちなんでしょうなと言われ、首をひねったことがある。
自分の頭が、はなはだ緻密さに欠けるものであるのに加え、好んで読む人間を思い浮かべてみても、格別そんな感じはない。

由良三郎は細菌と臨床を専門にする。研究職を勤めあげたのちに、推理小説作家に転じた。
専門の目からみると、推理小説には、どうみてもかばいきれないおかしな点が間々あらわれるのだという。
(p.22 「科学を無視した名作の数々」)
(p.135 「ミステリーの医学的考証」)

いやな感じがしないのは、欠点をあげつらっておしまいではないからだと思う。
自分が無知な分野のことばが、書きつらねてあったとして、読者と作者の「一種の信頼関係」があれば、小説の価値までなくなるものではない。
取材不足、孫引きなどによる、慢心からきたあきらかな誤りを除けば、ゆるされる「嘘」がある。
多少の科学的欠陥があったにせよ、気にもならないほど一息に読ませるような、魅力こそが第一だとしている。
(そもそも殺人を実際に犯してみてどうか、まで踏み込んだ人体実験などできはしない)

では、科学や医学の分野では門外漢な自分が、本書の作者をどうやって信じたらよいだろう。
そう思ううち、以下のような描写にいきあたった。

たびたびミステリーに顔を出す「テンジクネズミ」という呼び名が、かねがね不思議であった。
実験の場でも通常では使わない。辞書を引くと、「モルモット」が俗称とされ「テンジクネズミ」が正式名としてあつかわれている。
いずこの作家、翻訳家も、これをあてにしているだろうから、辞書は罪深い。
辞書の根拠は何か、とさらに専門書をたぐっていく。
すると、どうやら元凶らしき教科書がみつかった。

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昭和40年に初版を出したこの本は、さすがに数年後の改訂版ではテンジクネズミをモルモットに変えたが、初版の罪は消えない。
その教科書の著者は・・・・・・(ああ、この先は書きたくない)実は何を隠そう、この私だったのである。
(p.179「テンジクネズミ」より)
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信頼できる、という気がしないだろうか。

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映画にとってのリアリティ『ラスト・アクション・ヒーロー』

ラスト・アクション・ヒーロー

『ラスト・アクション・ヒーロー』(監督:ジョン・マクティアナン、出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、オースティン・オブライエン

映画にとっての「リアリティ」とは「映画らしく楽しめる」ことにある、と言い切った映画。

主人公の少年、ダニー(オースティン・オブライエン)は、学校をさぼって映画館に入りびたりだ。
シュワルツェネッガー主演の痛快なヒーロー劇がお気に入りで、展開をそらんじるほど観ている。
ある日、映画館のあるじからもらった秘密のチケットで、映画の中に入りこめるようになった。
悪役ベネディクト(チャールズ・ダンス)にチケットを奪われ、スクリーンを抜け出たスレイター(A.シュワルツェネッガー)とともに、現実の世界で決着をつけることになる。

映画の中でダニーは、ここは現実ではないのだと、映画らしい虚構を(感動をおぼえながら)指摘する。
「同僚にカートゥーンがいるのはおかしい」「ピンチのときに、救助があらわれるタイミングの良さ」「ひどい立ち回りの後でも、かすり傷すら負わない」「通行人が美女ばかり」「コールタールがハンカチでふきとれる」。

舞台がスクリーンのこちら側に移ったとき、スレイターは、ガラスを殴ると手が痛むことに驚く。
一方、ベネディクトは、人を殺してもみなが無関心なこと、パトカーが駆けつけたりしないことに驚いていた。
この世界では悪が勝利することこそが正しいはずだ、と判断する彼は、映画のそとのリアリティを代表してもいる。
大立ち回りの末、救急車で搬送されるスレイターを助けるダニーは、最後まで、映画好きの少年だった。

現実世界のシュワルツェネッガーが、新作のプレ公開で「みっともないから、レストランの自慢はしないでよ」と妻に言われていたり、映画から抜け出 た悪役は「お前はいつまでもそんな役に甘んじているつもりか!」とマネージャーにどやされたり、ハリウッドにまつわる描写も多い。
多角経営、ことにレストラン経営に乗り出したハリウッド俳優は、たしか彼以外にもいたものだし、悪役を演じた俳優は、そのイメージから転身をはかるまで苦労することがしばしばある。
名場面のパロディ、名台詞の引用もたくさんあり、とても見つけ切れていないと思う。

劇中「巨匠ベルイマンの『死神』」とうたわれた映画は『第七の封印』のことだろうか。

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2008年11月12日 (水)

ふいうちにやってきた「エルヴィスの必然性」

まだ、見知らぬものに取り巻かれて、見るもの聞くもののすべてが目新しかった頃。
窓から遠くへ目をやった先に、どこかの社名をしるしたビルの看板が見えた。
漢字で書かれており、初めて目にするかたちをしている。
見慣れない絵を見るような心持でもありながら、目が離せないうち、唐突に何と読むのかがわかった。
車窓の外をうしろに流れているのを見送りながら、ヘッドレスト越しに親に訊くにはタイミングを逃したのを惜しむこともなく、ただ確信のみがあったことに、驚いていたのをおぼえている。
今にして思えば、似たかたちをした読める漢字であったり、ビルの様子、部首など、きれぎれの情報をつなぎあわせて理解に至ったものだろう。

三年ほど前、何気なく試聴してみて、気に入ったCDでサム・クックの『ワン・ナイト・スタンド』というライブ盤があった。歌いながら笑っている顔が浮かぶような、喜怒哀楽がくっきりと出た歌い方と、バンドの演奏も楽しく、何度も繰り返し聴いていた。
サム・クックの他のアルバムはどうだろう、と期待まじりに試聴をしてみた。
先のライブ盤に比べるとだいぶ甘く、他のR&Bからきわだったところがないように思えたのが残念だった。

おりしも、映画『レイ』(レイ・チャールズの伝記映画)を観てから、いよいよブルースに傾倒し始めた者に感想を伝えてみた。やはり、サム・クックの他の曲はいまひとつだったと言う。
白人の間でも大ヒットしたレイ・チャールズやジェームス・ブラウンに比べ、サム・クックは白人の間にも流行し始める矢先に死んでしまって、いまひとつ知名度がない、不遇な立場にある歌手らしいと教えてもらう。
すると、甘すぎると感じた曲は、ひろく白人にも受け入れられるように意識したものだったのかもしれないと考えていた。

最近、映画『タイタンズを忘れない』を観る。 (レビューはこちら
黒人と白人が、スポーツをきっかけにして、結びつきが強くなっていく過程を描いたもの。
スポーツ以外で、音楽が印象にのこった。
合宿に向かうバスの中で、歌が好きな黒人のメンバーが口ずさむ歌を、"黒い"歌を歌うのはやめろよ、と隣の黒人がたしなめる。
特徴のあるものを、ことさらに歌うことで、白人のチームメイトと溝が深くなるのを恐れたものだろうか。
歌を"黒い"、"白い"と区別をしたもので、「ラジオで聞いたら白人だとばっかり思っていたのに、テレビで見たら黒人が歌ってたことにびっくりした」という描写が、スティーヴン・キングの小説にあったのを思い出していた。(※)

ふいに、映画『ブルース・ブラザース』(レビューはこちら)のラストが、エルヴィス・プレスリーだったことに納得がいった。

ブルースやソウルなどの黒人音楽が、しだいに白人のなかにも受け入れられていく過程が、ブルースをカバーする白人二人組と、原曲を歌う黒人歌手たちの共演で描かれているのならば。
ブルースもロックも歌った白人の大スター、エルヴィス・プレスリーの曲で幕が降りるのは、必然だったのだ。
音楽にくわしい人なら自明のことなのかもしれないけれど、初めて実感がやってきた。

※ 該当する箇所を探してみた。
「エディはテレビの<ロック・ショウ>を見るんだと言った。ニール・セダカが出ることになっていて、ニール・セダカがニグロかどうか 確かめたいのだと言う。ばかを言うな、ニール・セダカは白人だぜ、とスタンが言った。声を聞いただけで白人だってことはわかるじゃないか。声だけじゃわか んないよ、とエディは反論した。去年までチャック・ベリーは白人だとばかり思っていたけど、<バンド・スタンド>に出たのを見たらニグロだっ た。
「うちの母親は、彼が白人だとまだ思ってるんだ、それはそれでいいんだけどね」とエディは言った。「もしニグロだってばれると、もう彼の歌は聞かせてもらえなくなる」
ニール・セダカはぜったい白人なんだから漫画の本を四冊賭けてもいいぞ、とスタンがエディに言ったので、ふたりは、その問題にけりをつけるためにエディの家に向かった。」
『IT(イット)』文春文庫版 第2巻 p.80

(『IT』のレビューはこちら⇒1巻2巻3巻4巻

「耳で聞いたら黒人、見たら日本人」なのは綾戸智恵。

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