旅行・地域

2009年3月29日 (日)

京都の縁切り神社をおとなう

かねてより気になっていた安井金比羅宮に、足を運んでみる。
ここは「縁切り神社」とも呼ばれている。
[公式サイト] 安井金比羅宮

良縁をねがってのことと、執着を断つためもあるのだけれど、好奇心が先にたち、もある。
京都市バスを足につかっていた頃から、気になってしようがなかった。
前の座席の背中部分、座っていると目が行く部分に、広告スペースがある。
「不要な家電製品を引き取ります」「あなたの足に合った靴をお探しします」などに混じり、「縁を切るならここで」と神社が広告を打っていたものだった。

四条から花見小路を下り、建仁寺方面から向かうことにした。
お品書きをおもてに出している料理屋もあれば、まったく振りの客を相手にしなさそうな店を横目に見ながら、ときには金文字で「会員制」と札がかけられた店もやり過ごす。
ひとつめの鳥居をくぐると、縦横にラブホテルが立ち並んでいた。
そういえば、祇園も四条からはずれると、ラブホテルと並んで産婦人科があるところもあるのだと、教えてもらったことがあったのを思い出す。

ここを訪れるひとが後ろ向きだとばかりは、言えないようにも思う。
「縁切り」とはいえ、ここで願われているのは「悪縁をたち、良い縁がありますように」だ。
ここに来て、ご利益があると思うのならば、今までに恵まれなかったものは悪縁だったのだ、これからめぐってくるものは良縁なのだ、と思えやしないだろうか。
願いにあらわれるのは、どれも、自分のなかにある「執着」のあらわれなのだろう。
執着をふっきって前に進むためには良いのかもしれない、などと考えながら、歩いていた。

境内には、みじかい土管の上に、札が貼られたものが鎮座している。

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ヤマトのりで思い思いに貼られていった札(形代)が、いびつな形をなしていて、動きそうに見える。くぐって形代を貼ることで、ご利益があるのだという。

絵馬と形代をのぞいてみる。
形代は決まり文句(悪縁をたち、良縁を願う)が多かったのだけれど、絵馬はさまざまだった。

対象は一対一、多対多、多対一であったり、書くものは当事者、接点のある他人、願いは恋敵の縁切りを願うもの、自分の性格や癖などの内面に帰するもの、隣人トラブル、会社がらみなど。
実名と住所は、胸のうちでもいいんじゃないだろうか、と思いながら眺める。
(のちに「書いて人目にふれさせること自体、意趣返しがこめられているのだろう」と聞き、納得する)

絵馬を書いたひとは、ここに来て、いくらか気は済んだろうか。
が、「いつもありがとうございます」「先日はおかげさまで」と書かれたものも混じっている。
欲に果てなどはないようだった。

「学生さんが迷いと切れて、みんな国試に受かりますように」と、どこかの先生が書かれた絵馬が印象にのこった。

※絵馬(小)は300円、形代は100円。

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2008年8月22日 (金)

枠を持ち込む考え方『野生の思考』

野生の思考

『野生の思考』(みすず書房/レヴィ・ストロース)

もともと、人類学に対する興味があった。
何で「構造主義」でくくられる、他の論者とレヴィ・ストロースにはへだたりがあるように思えるのか。
日々、システムがどうのこうの、構造的にどうのこうの、という「構造」「システム」は、どういう意味を持たせたくて使っているのか。
確かめたくて、読んでみたのは去年。
読み終わった直後には、現代からみれば、なにも特別なことは言っていないことがわかった、と思ったはずが、まだはっきりわかっていない。

自分の理解している論理とは、まったく別の論理でできあがったものを、こちらのやり方で批判することは、フェアじゃありません、ということだったか。
この考え方が、他のポストモダンの考え方に行き着くには、つながりは無いとは言えないけれど、飛躍があるようで、妙な気がしている。別物とすら思える。

時代背景や、モースの贈与論など、一回くらい聞いたことがないと、読み通すのはつらいと思う。

サルトルなどは全然知らないので、また他をあたってから読み直そうと思っている。

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2008年8月11日 (月)

人類学者からみた世界『文明の生態史観』

文明の生態史観 (中公文庫)

『文明の生態史観』(中公文庫/梅棹忠夫)

内田百鬼園、山本夏彦のような「がんこじじいに思わせて、ちらと茶目っ気がのぞく」文章でいいなぁ、と思っていたら「それを書いたのは若いときだよ」と連れから指摘された。
書かれた歳は措くとしても、好みであるのにかわりない。

p.29~「植民地と英語」のくだりで、大阪駅を通勤につかう際、どうしたって目につくものがあるという。「OSAKA STATION」「POST OFFICE」と書かれたネオン・サインである。

 わたしはまえから、こういうのをみて、まいど憤慨していた。どういうつもりだ。国民の、国民のための、駅であり郵便局であるはずだ。だいたい、 タバコの名前もけしからん。日本のタバコに、PEACEとはなにごとだ。植民地根性もいいかげんにするがいい。わたしは、日本における英語の無意味なはん らんに、かんしゃくをおこしたのである。(p.29-30「植民地と英語」より引用)

インドやパキスタンにおもむいて、帰ってきた際に印象ががらりとかわったことを述べ、文字記号の役割に話がおよぶのだけれど、書き方がつねに、そ のときどきに応じた正直さが感じられる。わからないものはわからないと言う、誠実さがある。「おまえの宗教はなにか」と問われて、さしあたり「仏教」と答 えることにしている際の心情(p.48)なども、どうだ。たしかに、日頃さして熱心でもないくせに、知らずたよりにしているような自分をも見る思いがあ る。
p.104「系譜論と機能論」あたりからは、ぜんたい、文化とはなにごとを指し示すのかと明らかにしようとする。文化は由来をもってとらえようとするのでなく、くみあわさったかたちをみてとらえてみよう、という。

 建築にたとえていえば、個々の材木が、吉野杉であるか米松であるかをいうのは、系譜論の立場だ。できあがった建築が、住宅であるか学校であるか をいうのは、機能論の立場である。それは、文化の素材の問題ではなくて、文化のデザインの問題であり、いっそうはっきりいえば、生活主体、すなわち、文化 のにない手たる共同体の、生活様式の問題なのである。(p.104より引用)

述べられている言説があたらしいかふるいかは知らないが、こうして眼前のものごとを切り分けていく姿勢は、古びることはないだろうと思う。

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