映画・テレビ

2009年3月 3日 (火)

テリトリーの侵犯者『ジョーズ』

ジョーズ [DVD]

『ジョーズ』(監督:スティーブン・スピルバーグ、出演:ロイ・シャイダー、ロバート・ショウ、リチャード・ドレイファス)

ミツバチにくらべ、胴体が丸々としたものを「くまんばち」と呼んでいた。
正式な名前が何かは知らない。丸々とした見てくれから、いかにもたくましそうだとみたものか、刺されたらよほど痛いのでないか、と子供連中からは恐れられていた。
ハチは巣を大事にする。巣のまわり、半径いくらかは守るべきテリトリーとみなしているから、踏み込んでしまうと敵とみなされる。ハチが身のまわりを飛び回っているときは、偵察と警戒をかねている。どこかで聞きかじった話が、頭にのこっていた。
晴れた日の昼下がり、くまんばちが耳のそばを通り過ぎた。
手で払って、攻撃をくわえるのも危ない。去るのを待とうとしたら、腕に止まる。
息を殺して、這い回る様子を見守っていたのもむなしく、痛みをのこして去っていった。
だまされた。既にテリトリーを侵していたのかもしれない。蜜がないことの腹いせか。単に虫のいどころが悪かったのか。
見送りながら、どこか呆然としていた。

『ジョーズ』を観たあと、そんなことを思い出していた。

海べりのアミティ市で、サメに襲われたとおぼしき若者が、浜にうちあげられた。
市は、海びらきを前ににぎわっている。サメが出ると知られては、かせぎ損なう。
市長(マーレイ・ハミルトン)は、検死結果は見ないふりを決め込んだ。
人命を救うことと、市長の思惑との板ばさみになったブロディ署長(ロイ・シャイダー)は、海洋学者フーパー(リチャード・ドレイファス)、漁師クイント(ロバート・ショウ)とともに海に出る。
おぼれて以来、海が恐くてならないブロディ署長を、妻(ロレイン・ゲイリー)は心配しながら見送る。

戦争で海に投げ出されたこともあるクイントは、陸で育った二人を軽んじていたが、傷自慢をしあう夜を経て、徐々にうちとけていく。
どんなに戦歴をかさねてきた者でも、あっけなくサメに食われてしまったものだと語るクイントは、「いかに自分が強かったか」を自慢するのではなく、理不尽な自然に近づき、からくも生きながらえた「運の強さ」を自慢しているようにみえた。

ビーチを餌場とみなして、市にまぎれこんできたサメ。
海の上では、相手のテリトリーに踏み込んだのは自分たちの方だ。
決着がついたあと、ブロディ署長は海を恐れなくなった。サメにうち勝った喜びというよりも、自分たちのテリトリーがいかに小さいかを認めることができた、安心だったのではないかと思う。

評判どおり、サメそのものが映る場面はそれほど多くない。
浜辺で子供がおそわれたとき、食いちぎられた脚がしずむ場面のあと、切り換わったカメラに映る救助シーン。大人にひきずられる子供の上半身が先に見えて「この子供も襲われたのだろうか」と思わせる。
また、画面の奥から照らされるライト、一瞬、歯形が見えるまもなく、波に流される船のシーンが印象にのこった。

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2009年3月 1日 (日)

説得力のありか『十二人の怒れる男』

十二人の怒れる男 [DVD]

『十二人の怒れる男』(監督:シドニー・ルメット、出演:ヘンリー・フォンダ、リー・J・コッブ他)
陪審員が全員、意見の一致をみないと裁判が終わらない。決をとるために部屋にあつまった12人。たったひとりの無罪派陪審員8番(ヘンリー・フォンダ)の意見で、見落としていた細部をあらためてみる。
8番は疑わしきは罰せず、推定無罪の考えかたでゆるぎない。
「野球が観たいから早く帰りたい」という理由しか頭にない陪審員7番(ジャック・ウォ-デン)など、いいかげんな参加者が多いことと、彼らが意見をひるがえすきっかけが面白い。
なかば結論はみえているから、倒叙もののようにも観られる。

陪審員3番(リー・J・コッブ)は、自分の家庭と被告を重ねあわせており、ひどく感情にまかせた話し方をする。
だから、彼は視野がせまくてだめなやつだろうか。
有罪派が「スラムで育った少年なんか信用できるか」と言ったあたりで、いちはやく無罪派に転じた陪審員5番(ジャック・クラグマン)は、自分の出自をおとしめられたと感じた事情もあるだろう。
何かに縛られたものの見方をしてしまうのは、ひとり3番だけではない。
後半の視力のくだりなど、いいところをついてもいるのに、ずいぶん損をしている。
また、8番の顔つきが、不意に腹黒くみえるときもある。
無罪派が有罪派をくずす証拠も、状況証拠でしかない。

議論の余地をのこしたままに終わるものだから、筒井康隆、手塚治虫ほか、いろいろとパロディが出ているのがよくわかる。
最近ロシアでもリメイクされた。三谷幸喜の『12人の優しい日本人』はまだ観ていない。

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2009年2月23日 (月)

夢からさめたのちの夢『ニュー・シネマ・パラダイス』

ニュー・シネマ・パラダイス 完全オリジナル版 スペシャル・エディション [DVD]


『ニュー・シネマ・パラダイス』(監督:ジュゼッペ・トルナトーレ 出演:フィリップ・ノワレ,ジャック・ペラン)
ひとに何かを勧めるのは、思い入れがあるだけにむずかしいことがある。
つい、強すぎることばをつかうと、疑りぶかい相手は大幅に割り引く。
また、多くのひとが同じことを言っておれば、今更なにをつけ加えることもない気もする。
とはいえ、世にならうのは、多くのひとが何をよりどころにしているのか、おしはかるには良いにちがいない。ようやく考えはじめた折、似たような考えをたどって、反省にいたる文章を見かけた。
つむじまがりの内田百鬼園である。
おしつけるものでなし、勝手をやって、勝手に懲りているのをみると、かえって見習いたくなるからふしぎなものだ。

前もって耳にしていた評判は、「主人公の少年がかわいらしい」「映画好きなら"必ず"観ておくべき」「"必ず"泣ける」ばかり。観られるのはディレクターズ・カットの長尺ばかり。
『ニュー・シネマ・パラダイス』を観るまでに、ずいぶん回り道をした。

この映画は、ふたつの意味でファンタジーなのだと思う。

----以下、筋をばらします----

前半では映画好きの少年トトと、映写技師アルフレードの交流が描かれる。
母親との仲は、交流あたたかいものとはいえず、トトはアルフレードをたよりにしていた。
アルフレードは、もっと実のある勉強に身をいれろと諭したけれど、トトは映写技師をこころざす。
その頃、みなが集まる映画館は、気ままな楽しみ方がゆるされる集会場でもあった。

青年になってもトトは映画にのめりこみ、映画の台詞を引用しては、アルフレードと笑いあう。
好きな映画を仕事にできる喜びもある。恋人もできた。
たしかに楽しく観られる場面だと思いや、我にかえる場面がある。
恋人が遠くの町に行く。次に会えるのは季節がかわってからだと言う。
これが映画だったら一瞬で季節もかわるのに、と白昼夢を観るトト。
劇場にかかる映画にかさねあわせて、いままさに恋人が会いに来た想像にうっとりしている様子は、映画を観ている者の頭を冷やす。

トトが成長するにつれ、アルフレードの老いは加速する。
背景では、徐々に映画産業がおとろえてゆく兆しがみえてくる。

ある日、アルフレードは台詞の引用をやめた。
いわく「人生は映画ではない。よほどつらいものだ」。
映画から離れろ、片田舎から離れろ、とせきたてる。

田舎を離れたトトは、実業家として成功した。
アルフレードの葬儀をきっかけに、何十年ぶりかで戻った故郷では、かつての映画館はみるかげもない。
都会に戻り、アルフレードが遺したものをみた壮年トトが微笑む。
それまでの場面が、いくつも伏線となってかさなる。
映画を神父が検閲していたり、共産思想の友達と握手しなかった時代が終わりを告げたこと。トトとアルフレードの、約束が守られたこと。
なにより、アルフレードがトトに「わかっていたよ」と言うような、理解がある。
映画をあきらめろと言っても、トトは映写技師をえらんだ。
再び、厳しく諭して田舎から送り出しても、やはり映画にかかわりのある仕事についた。
むこうみずな若者は、多かれ少なかれ先達の意見を裏切る。

きっと助言はうけいれられないだろうと承知して、ゆるしているアルフレード。
好きを通して功なり名をとげたトト。
ふたつの得がたいものが、一度にあらわされるラストシーンだった。

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2008年11月19日 (水)

陽気なサボテン兄弟による"映画の映画"『サボテン・ブラザース』

サボテン・ブラザース (ベストヒット・セレクション)

『サボテン・ブラザース』(監督:ジョン・ランディス、出演:スティーヴ・マーティン、チェビー・チェイス、マーティン・ショート)

そもそも、飲みに行った時にバーテンダーに薦められた映画だった。吹替え声優の広川太一郎が大好きで、他に『戦国自衛隊』(漫画)も薦められたのをおぼえている。
ようやく吹替版で観た。

村が略奪の憂き目にあるため、助っ人を捜すために町に来た女。ろくな金も持たず、勝手もわからず、荒くれ者にあしらわれるばかり。
教会でかかっていた西部劇で見かけたヒーローの勇敢さに打たれて、劇中人物に助けを求める電報を送ることにした。
かくして「映画会社」の「俳優」宛てに電報は届けられる。

前提からしてずれているので、駄目な人は駄目かもしれない。
登場人物が総出でとぼけているのを楽しめるなら、楽しい。

「ナーダ」って知ってるか?といわれて「灘・・・?日本酒の」
「あの飛行機はどこへ飛んでいくんだろうな」「少なくとも火星ではないんじゃない?」(以下省略)
というような、日本語に置き換えるときに考えられただろうやりとりが、あちこちにある。

リーダーなのに情けないところもあるラッキー(スティーヴ・マーティン)、しっかりしているようで大間抜けなダスティ(チェビー・チェイス)、ふ ざけているのに決めるときは決めるネッド(マーティン・ショート)が「特攻野郎Aチーム」のハンニバル、フェイス、モンキーに重なって見えるときがあっ た。
かのドラマも、基本は「悪者に虐げられている人を救う陣地合戦」で、西部劇の趣がある。

ドラマ「踊る大捜査線」で「われらスリ~アミ~ゴ!」と名乗っていた三人組は、これが元だろうか。

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映画にとってのリアリティ『ラスト・アクション・ヒーロー』

ラスト・アクション・ヒーロー

『ラスト・アクション・ヒーロー』(監督:ジョン・マクティアナン、出演:アーノルド・シュワルツェネッガー、オースティン・オブライエン

映画にとっての「リアリティ」とは「映画らしく楽しめる」ことにある、と言い切った映画。

主人公の少年、ダニー(オースティン・オブライエン)は、学校をさぼって映画館に入りびたりだ。
シュワルツェネッガー主演の痛快なヒーロー劇がお気に入りで、展開をそらんじるほど観ている。
ある日、映画館のあるじからもらった秘密のチケットで、映画の中に入りこめるようになった。
悪役ベネディクト(チャールズ・ダンス)にチケットを奪われ、スクリーンを抜け出たスレイター(A.シュワルツェネッガー)とともに、現実の世界で決着をつけることになる。

映画の中でダニーは、ここは現実ではないのだと、映画らしい虚構を(感動をおぼえながら)指摘する。
「同僚にカートゥーンがいるのはおかしい」「ピンチのときに、救助があらわれるタイミングの良さ」「ひどい立ち回りの後でも、かすり傷すら負わない」「通行人が美女ばかり」「コールタールがハンカチでふきとれる」。

舞台がスクリーンのこちら側に移ったとき、スレイターは、ガラスを殴ると手が痛むことに驚く。
一方、ベネディクトは、人を殺してもみなが無関心なこと、パトカーが駆けつけたりしないことに驚いていた。
この世界では悪が勝利することこそが正しいはずだ、と判断する彼は、映画のそとのリアリティを代表してもいる。
大立ち回りの末、救急車で搬送されるスレイターを助けるダニーは、最後まで、映画好きの少年だった。

現実世界のシュワルツェネッガーが、新作のプレ公開で「みっともないから、レストランの自慢はしないでよ」と妻に言われていたり、映画から抜け出 た悪役は「お前はいつまでもそんな役に甘んじているつもりか!」とマネージャーにどやされたり、ハリウッドにまつわる描写も多い。
多角経営、ことにレストラン経営に乗り出したハリウッド俳優は、たしか彼以外にもいたものだし、悪役を演じた俳優は、そのイメージから転身をはかるまで苦労することがしばしばある。
名場面のパロディ、名台詞の引用もたくさんあり、とても見つけ切れていないと思う。

劇中「巨匠ベルイマンの『死神』」とうたわれた映画は『第七の封印』のことだろうか。

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2008年11月12日 (水)

ふいうちにやってきた「エルヴィスの必然性」

まだ、見知らぬものに取り巻かれて、見るもの聞くもののすべてが目新しかった頃。
窓から遠くへ目をやった先に、どこかの社名をしるしたビルの看板が見えた。
漢字で書かれており、初めて目にするかたちをしている。
見慣れない絵を見るような心持でもありながら、目が離せないうち、唐突に何と読むのかがわかった。
車窓の外をうしろに流れているのを見送りながら、ヘッドレスト越しに親に訊くにはタイミングを逃したのを惜しむこともなく、ただ確信のみがあったことに、驚いていたのをおぼえている。
今にして思えば、似たかたちをした読める漢字であったり、ビルの様子、部首など、きれぎれの情報をつなぎあわせて理解に至ったものだろう。

三年ほど前、何気なく試聴してみて、気に入ったCDでサム・クックの『ワン・ナイト・スタンド』というライブ盤があった。歌いながら笑っている顔が浮かぶような、喜怒哀楽がくっきりと出た歌い方と、バンドの演奏も楽しく、何度も繰り返し聴いていた。
サム・クックの他のアルバムはどうだろう、と期待まじりに試聴をしてみた。
先のライブ盤に比べるとだいぶ甘く、他のR&Bからきわだったところがないように思えたのが残念だった。

おりしも、映画『レイ』(レイ・チャールズの伝記映画)を観てから、いよいよブルースに傾倒し始めた者に感想を伝えてみた。やはり、サム・クックの他の曲はいまひとつだったと言う。
白人の間でも大ヒットしたレイ・チャールズやジェームス・ブラウンに比べ、サム・クックは白人の間にも流行し始める矢先に死んでしまって、いまひとつ知名度がない、不遇な立場にある歌手らしいと教えてもらう。
すると、甘すぎると感じた曲は、ひろく白人にも受け入れられるように意識したものだったのかもしれないと考えていた。

最近、映画『タイタンズを忘れない』を観る。 (レビューはこちら
黒人と白人が、スポーツをきっかけにして、結びつきが強くなっていく過程を描いたもの。
スポーツ以外で、音楽が印象にのこった。
合宿に向かうバスの中で、歌が好きな黒人のメンバーが口ずさむ歌を、"黒い"歌を歌うのはやめろよ、と隣の黒人がたしなめる。
特徴のあるものを、ことさらに歌うことで、白人のチームメイトと溝が深くなるのを恐れたものだろうか。
歌を"黒い"、"白い"と区別をしたもので、「ラジオで聞いたら白人だとばっかり思っていたのに、テレビで見たら黒人が歌ってたことにびっくりした」という描写が、スティーヴン・キングの小説にあったのを思い出していた。(※)

ふいに、映画『ブルース・ブラザース』(レビューはこちら)のラストが、エルヴィス・プレスリーだったことに納得がいった。

ブルースやソウルなどの黒人音楽が、しだいに白人のなかにも受け入れられていく過程が、ブルースをカバーする白人二人組と、原曲を歌う黒人歌手たちの共演で描かれているのならば。
ブルースもロックも歌った白人の大スター、エルヴィス・プレスリーの曲で幕が降りるのは、必然だったのだ。
音楽にくわしい人なら自明のことなのかもしれないけれど、初めて実感がやってきた。

※ 該当する箇所を探してみた。
「エディはテレビの<ロック・ショウ>を見るんだと言った。ニール・セダカが出ることになっていて、ニール・セダカがニグロかどうか 確かめたいのだと言う。ばかを言うな、ニール・セダカは白人だぜ、とスタンが言った。声を聞いただけで白人だってことはわかるじゃないか。声だけじゃわか んないよ、とエディは反論した。去年までチャック・ベリーは白人だとばかり思っていたけど、<バンド・スタンド>に出たのを見たらニグロだっ た。
「うちの母親は、彼が白人だとまだ思ってるんだ、それはそれでいいんだけどね」とエディは言った。「もしニグロだってばれると、もう彼の歌は聞かせてもらえなくなる」
ニール・セダカはぜったい白人なんだから漫画の本を四冊賭けてもいいぞ、とスタンがエディに言ったので、ふたりは、その問題にけりをつけるためにエディの家に向かった。」
『IT(イット)』文春文庫版 第2巻 p.80

(『IT』のレビューはこちら⇒1巻2巻3巻4巻

「耳で聞いたら黒人、見たら日本人」なのは綾戸智恵。

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2008年10月30日 (木)

冷静と情熱がいっしょくた『ブルース・ブラザース』

ブルース・ブラザース

『ブルース・ブラザース』(監督:ジョン・ランディス、主演:ダン・エイクロイド、ジョン・ベルーシ)

ある孤児院が経営難におちいる。税金が払えないかぎり、つぶれるより他ない。
世話になったシスターをなんとか救おうと、孤児院出身のジェイク(ジョン・ベルーシ)とエルウッド(ダン・エイクロイド)が奔走する。

「ブルース・ブラザース」というのは「サタデー・ナイト・ライブ」という番組で人気を博したバンド。もともと、ライブで歌を披露していた人たちなので、歌がうまいのはあたりまえ。
彼らは、往年のブルースを好んでカバーする。
ダークスーツと帽子、レイバンの分厚いサングラスで身を固めた白人が、歌って踊る。
(たしか『ブルース・ブラザース2000』メイキングで、ダン・エイクロイドが当時を振り返る映像があったが、観客前列にはレイバンのサングラスをかけたジャック・ニコルソンも満足そうに陣取っていた)

映画では、彼らがカバーした、原曲の歌手たちが次々に登場する。

今はなきジェームス・ブラウンが、教会の牧師として出てくる。
聖歌隊も黒人ばかりで、リズムを取って歌って踊る。
「君は、神を見たか?」
そこで、ジェイクが天啓を受ける。
「おれは神を見た!」
孤児院救済の策を思いつくのだった。

ガソリンスタンドが爆発しようとも、カーチェイスでスーパーマーケットの中を走りぬけようとも、泊まったホテルが何かで爆破されようとも、動揺をあらわさない二人がとてもおかしい。

大好きな映画のひとつ。

関連記事⇒「ふいうちにやってきた、エルヴィスの必然性」

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きっかけはスポーツだけではない『タイタンズを忘れない』

タイタンズを忘れない 特別版


『タイタンズを忘れない』(監督:ボアズ・イェーキン、主演:デンゼル・ワシントン、ウィル・パットン)

アメフトの予備知識は「防衛を突破して陣地にボールを置くか投げ込むかしたら点数が入る」くらいで観た。
相手チーム「アンネセサリー・ラフネスだ!」
審判「クォーター・バックが、か?」
ああ、クォーターバックは多少のラフプレイは許されるポジションなのね、などと、いちいち類推しながら見る。(「多少」の基準がわからないにせよ)

おりしも黒人少年が、白人の店主に殺された事件があり、街は人種対立に沸くさなか、教育委員会は差別を廃止することを宣言。地区の高校は、白人と黒人の両方が通うものとして統合された。
ブーン(デンゼル・ワシントン)はアメフト部のヘッド・コーチとして、教育委員会から指名を受けた。
それまでのコーチ、ヨースト(ウィル・パットン)は、渋々、ディフェンスを指導するアシスタント・コーチとして残留を決める。
ブーンの配属は、目先の暴動寸前の黒人をおさえる政治的な思惑があり、いずれ更迭する予定が端から決まっていた。

教育委員会だけでなく、選手の親が采配に口出ししたりと、忙しい。さまざまな関係がからむのを見ると、プロ・スポーツの内幕はどんなだろうかと思う。
対外交渉役は、きっと監督以外に専任者がいるものだろう。

でぶの白人おちこぼれルーイ・ラスティック(イーサン・サプリー)が合宿で食事のとき、黒人のテーブルにつく。
「なんでこっちに来た?仲間の席に行けよ」
「みんな仲間だ」と答えるルーイを、黒人チームは「彼は色白の黒人だ」「彼も神に祝福された子だ」と、'黒い'歌を歌って迎え入れる。

試合外でのもめごとも重なって、黒人対白人の反目が高まり、またもチームがばらばらになりかける。
ルーイは、勉強が出来ないときにも信じろと励ましてくれたじゃないか、祈りを忘れるなって、とまわりを促す。
その後、新しく自分たちで決めた準備運動をしていいですか、と選手たちが申しでた。
相手チームのコーチは「なんだあいつら、ビートルズのつもりか?」と眉をひそめる。
ハンドクラップまじりに歌ってステップをふむ様子は、ゴスペルとかさなって見える。
神のもとの結束、なのだと思う。

ソウルもブルースも、神へささぐ歌と地続きに近い。
『ブルース・ブラザース』(レビューはこちら、関連記事はこちら)を思い出す。

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居心地の悪さを存分に『ファニーゲーム』

ファニーゲーム

※Amazon品切れ、近日ハリウッドのリメイクが公開される予定(同監督、主演:ティム・ロス、ナオミ・ワッツ)

『ファニーゲーム』(監督:ミヒャエル・ハネケ/主演:スザンヌ・ロタール、ウルリッヒ・ミューエ)

避暑地を訪れた家族のところへ、妙な隣人が訪れる。
卵を分けてもらえませんか、隣の家の使いで来ました。
どうぞ、お入りなさいな。
良いゴルフクラブですね、試してもいいですか。
・・・
あれ、ここにゴルフボールがありますね、さっき僕は何で試したんでしょう?

一瞬、息をためてから「キャー」という悲鳴と顔が大写しになるようなシーンを、何度も練習したんだなと思ってしまう。
推理ものでは、もとをたどれば過去の怨恨が動機になるのに興ざめる。
むしろ怨恨が動機であれば、殺人も正当化されるのかと思えば、妙な違和感がある。
ふと、そんなことを思うようなときがあれば、たまにこういう映画を観てリセットしてもいいかもしれない(けれど、お薦めはしない)。

小説でいえば、官能もホラーも、むきだしな描写があるほどに他人事で滑稽に思えてくるもので、『獣儀式』(友成純一/幻冬社)は描写がとても痛いけれど、後味は『殺戮の野獣館』(リチャード・レイモン/扶桑社)の方が、ずっと悪い。
前者は人体破壊場面が延々と書かれ、後者はこれからひどい場面が始まる、というところで章が切り替わる。
「それからどうしたのか」を知りたい、と一抹の欲求不満を感じている自分に気づかされるのがいやなのだと思う。

一家の父親に対する暴力描写はあれど、母と息子に対してのものは、直接は出てこない。でも、よりひどい目に合わせられているのは母と息子。

ゴダールの『気狂いピエロ』でも、観客にむかって話しかけてくる場面があった。そういう手法としてはまたか、と思うので新しさは感じない。
「劇場映画にはまだ時間が足りない」という台詞があるものの、あまりの長回しに途中を早送りしたので、オチはビデオで観る方が、皮肉がきいているかもしれない。

日常から非日常に移っていく、始まりの演出が良かった。

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繰り返し確かめられる未来『二十日鼠と人間』

二十日鼠と人間

『二十日鼠と人間』(監督:ゲイリー・シニーズ/主演:ゲイリー・シニーズ、ジョン・マルコヴィッチ)

図書館からVHSを借りる。
冒頭に『ボディ・ガード』のCMが入っていて、同じ頃かと思うとおどろく。当時はこちらを知らなかった。
ゲイリー・シニーズはどの作品でも、口の端に冷笑を浮かべながらも、なにかを諦めきれず葛藤している役のような気がしている。本作もそうだった。

クレバーなジョージ(ゲイリー・シニーズ)と、知能に障害があるレニー(ジョン・マルコヴィッチ)が、連れ立って季節労働者として働く道行き。

二人には夢がある。
いつかは金をためて牧場を、ひとを雇う立場になる。
レニーは、何度もジョージに「その話をしてくれ」とせがむ。
何度も聞いているし、詳しいのだから、俺じゃなくてお前だって話ができるじゃないか、とジョージは苦笑する。
何度も何度も聞いているものだから、話の途中から唱和するくせに、レニーは「俺じゃだめだ、お前が話してくれないとだめなんだ」と言う。

馬に頭を蹴られたからばかなんだ、とジョージは嘘をついてレニーを紹介する。
牧場の人はみな、紹介を聞くまでもなく、話すうちにレニーを見下しはじめる。レニーはおもに感情表現しかしない。人から聞いた話で、覚えているものが挿しはさまれる。時系列もめちゃめちゃだ。

だからこそ、レニーはジョージに話をせがむ。
「50エーカーの牧場だ」「うさぎを飼ってうまごやしを食わせる」ジョージは見てきたかのように未来を語ることができる。
まだ見ていないもの、感じていないものを具体的に語ることが、レニーにはできない。

映画を観ているこちらがわは、次第に陪審員にも似た気分になってくる。
話の筋は『子鹿物語』を思い出す。

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2008年9月19日 (金)

メディア・リテラシーの話でもある『ミスト』

ミスト コレクターズ・エディション ミスト


『ミスト』(監督:フランク・ダラボン、出演:トーマス・ジェーン、マーシャ・ゲイ・ハーデン、ローリー・ホールデン)

「旅は偏見を育てる」という言葉がある。
見識を広めるものとのみ捉えている向きからは、反発を買いそうなことだけれど、真理にはちがいない。

「原作とは違う幕引き」が話題になっていたので、観て来ました。
濃い霧に取り巻かれた、田舎町のスーパーマーケット。
視界をさえぎる霧の中には、何者かがいて「噛む」らしい。
各々の事情で、スーパーをあとにする者、篭城する者、やがては立てこもりの中で派閥ができる。
まず、「霧の中にいる何か」を認めるかどうか。
主人公は、実際に襲われた。証拠として断ち切られた触手を見た幾人かも、存在を認める。
デマだと断じる弁護士の一派は、認めないままに外へ出て行くこととなった。
やがて、怪物が侵入してくる段になると、聖書を携えた女が耳目をあつめる。
預言者を名乗る女が生贄を求める声に耐えきれず、主人公たち一派は外へ向かう。

こちら側は、主人公に肩入れしながら観ている。
いかに自分の身が危うかろうとも、他人を怪物から助けようとする場面も繰り返される。他の扇動者に比べて、彼は危険をかえりみない。
そうした主人公らしさ以上に、何より、彼はいの一番に怪物を見ている。その時の判断も迷いがなかった。信が置ける。
劇中の誰よりも、あちこちの場面を目にして、情報を多く持つこちら側としては、一次情報を手にしながら、最善の答えを求めようとする者に肩入れしたくなる。
ところが、ラストで彼は判断を誤る。
結局、霧の中に何がいるかは、観ている者にも明かされていなかったことがわかる。

主人公は、一次情報の確からしさに目がくらみ、弁護士、預言者に次ぐ、扇動者になってしまった。
三者三様に、「これしか選択肢はない」と思いつめ、周りにも思わせ、影響を与えたことで共通している。

信じられるものを選り分けるために、疑うのがメディア・リテラシーというのではないか。
ひと一人、実際に見聞きできることは、いずれ限られており、口伝の確かさは、伝聞のいいかげんさも含む。
市井のクチコミが信じられるとして、クチコミ自体が仕込みだったとしたら?
どこまで行ってもいたちごっこがつきまとう。
「○○だから信じられる」と断じることは、理由を吟味していない点において、メディア妄信と変わらない。
部分的に切り分けて、批判的に受け入れる他はない。
疑ってかかれ、メディアは嘘をつく、という言い分は、常に半分のことしか言わない。

(2008/5/31)

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理解されなかった天才の話『パフューム』

パフューム スタンダード・エディション

『パフューム ある人殺しの物語』(監督:トム・ティクヴァ、出演:ベン・ウィショー、ダスティン・ホフマン、アラン・リックマン)

サリエリがいなくても、理解者に事欠かなかったモーツァルトはまだしも、ふつうの人間が求めても得られない答えが、むきだしで目の前に見えていることは、幸か不幸か。
めぐりあわせによっては、よほど不幸なのかもわからない。

図抜けて嗅覚に長けた者が、自分が見るもの嗅ぐものをそのままに、他のひとでも嗅ぐことができる香りに移しとろうとする。彼はたしかに、香りにかけては誰にも負けない。
ただ、「わかって」しまうだけに、ひとにどうして伝えたものやら、手立てがわからない。おたがいの体験をもとに、たとえ話に持ち込もうにも、ひとりで生まれてひとりで生きてきたような彼には、たとえようにも持ち合わせがない。

天才になろうと思ってもなれないが、何がどうすごいのかは理解できる者。才能を理解していようがいなかろうが、どういうふるまいをしても庇護にまわる親や パトロンが必要だ。天才がなすことを、どういうかたちであれ、凡人にも理解できるかたちに噛みくだき組み替える。そうした仲立ちがいないばかりに、埋もれ てしまった才能はどれほどあるのだろう。

話の筋は、視点をかえれば「連続殺人事件が起こったあげく、わけがわからないままに気分の高揚に身をまかせた人々の話」。はたして何が起こったのか、最後まで誰もわかっていない。
求めていた感情が得られなかったばかりに、感情をつくってしまった天才がいた、という話だ。

しかし、観る前から思ってはいたけれど、宣伝でネタを割り過ぎているのがもったいなかった。

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2008年8月30日 (土)

組織になじんでいく過程を書く『羊たちの沈黙』

羊たちの沈黙 影響力の武器[第二版]

『羊たちの沈黙』(新潮文庫/トマス・ハリス,訳:菊池光)

映画版を「クラリスとレクターのラブストーリー」と称した評を聞いたことがある。
抵抗も警戒もあるのに関わらず、次第にレクターに心を開いていくクラリスを、良かったと思うかどうか。
『影響力の武器』(誠信書房/ロバート・B・チャルディーニ,訳:社会行動研究会)を読んでいると、クラリスはいいように利用されているようにも見える。

小説では、クラリス・スターリングの心理描写に多くが割かれる。
彼女はFBIという組織からは、まだ仲間とみなされていない。直属の上司、クローフォドとのやりとり、時に苛立ち、哀れみ、無条件の尊敬を通じて、組織へのロイヤリティを形成していく過程が描かれるのが、映画とは趣が異なる。

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(*初動捜査で、警察犯罪捜査課の係官と挨拶を交わす場面)
彼があっという間に男性同士の結び付きを確立するのを見て、スターリングは興味を覚えた。何かあったら直ちに連絡する、任せておいてくれ。それは 有難い、恩に着るよ。事によると、たんに男性同士の結び付きだけではないかもしれない、彼女は考えた。彼女にもその連帯感が伝わってきた。
(p.132)
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(*人一倍、現場を駆けずり回ったあげく、病床の妻の世話をしに帰宅するクローフォドの後姿を見送りながら)
その瞬間、彼のためなら平気で人が殺せる、とスターリングは思った。
それがクローフォドの卓越した能力なのだ。
(p.141)
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「クローフォドの卓越した能力」の詳細は、30章(p.269~)の、怒りで眼がくらみそうなクラリスを巧くなだめる場面にある。
人望をあつめる人物の不思議さを、能力と言い換えている。

特に、翻訳が読みづらいとは思いませんでした。

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とかく噂をたてられる『羊たちの沈黙』

羊たちの沈黙 (特別編) 羊たちの沈黙 特別編

映画『羊たちの沈黙』(監督:ジョナサン・デミ、出演:アンソニー・ホプキンス,ジョディ・フォスター)

いまさら初見とあっては、見ない聞かないようにしても、細切れの情報は知ってしまっている。
あらましから抜け落ちた部分を、埋めるための確認作業に堕ちてしまわないかが残念で、先送りしていたもの。

クラリス(ジョディ・フォスター)は、FBI研修生の中では数少ない女性であり、美しく、成績も優秀であるため、あらゆる意味で耳目をあつめる。
ジョギング中には同期の目を引き、調査を依頼した博物館の研究員にはナンパされ、刑務所の担当医にも色目を使われる。

牢内のレクター博士(アンソニー・ホプキンス)は、そうした視線にさらされているクラリスを庇護する。
また、直属の上司にも同じ目で見られているのだと脅す。
彼女の生い立ちにまつわることを語らせて、理解を示すことで、懐柔に成功する。

ジョディ・フォスターには、あれこれと噂がたえなかったのだと、映画雑誌などを通じて知ってしまっている。
美少女の子役でデビューしたせいで、思春期でやや太りがちになったくらいで罵られる。男性不信であるとか、レズビアンであるなどの噂が立てられ、子供も体外受精の結果だと書き立てられた。

本当にゴシップめいた話でしかないのだけれど、作中でぶしつけな好奇の目にさらされ続けるクラリスを見ると、映画の画面外にある、そうした来歴が重なって見えた。
クラリス役もまた、「嫌な経験」のひとつに数えられていたのではないだろうか、と憶測すら生じる。
(ジョディ・フォスターは、続編『ハンニバル』クラリス役のオファーを断っている)

今となっては、そうした見方が入り込む。
役柄がとらわれた過去、女優がとらわれた過去は、どこまで分かれるものなのだろうか。
もう少し早く観ておれば、その点、悩まずに楽しめたように思うのが、残念ではある。

※ 小説版『羊たちの沈黙』レビューはこちら 

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2008年8月29日 (金)

天職か適職か『ザ・マジックアワー』

(劇場映画) 公式リンク http://www.magic-hour.jp/index.html

『ザ・マジックアワー』(監督:三谷幸喜、出演:佐藤浩市,妻夫木聡...戸田恵子)

コメディとしては、意図しないずれ、噛み合わなさを笑うものです。
同時に、自分にとって最善の解を探して、迷う人たちの話でもあります。「適職と天職とは」がテーマとみました。

佐藤浩市は、俳優を「自分のやり方で」続けるべきかどうか迷う。
深津絵里は、街を出て行くべきか、その前に誰をパートナーに選ぶべきかで迷う。
妻夫木聡は、佐藤浩市をだましつづけるかどうか、そもそも深津絵里を選ぶかどうかで迷う。
西田敏行は、のれん分けした部下に、街をゆずるべきかどうか迷う。

実はだまされていたと悟った佐藤浩市は、いままで危険にさらされていたことを怒るのではなく、「あんな一世一代の演技は、もう自分にはできない」と一度は絶望します。
題「マジックアワー」の意味が説かれ「自分で自分を見限ることはないのだ」と思い直す場面には、胸をつかれました。
裏方さんたちが屈託なく、みな素晴らしい人たちに見えるのも、たぶん、選んだ道に迷いがなくまっとうしているからです。

前情報はほとんど仕入れずに観に行ったので、
黒服の女の群れ(バスター・キートン映画?)
市川崑監督(もう亡くなってるから、そっくりさん?)
「黒い101人の女」!!ああ、市川崑は撮影中は存命だったのか。
と、あとから腑に落ちることができました。
やっぱり、観る前の情報は少ないほうがいい。

寺島進が佐藤浩市に「弟子にしてください」というのは果たして、殺し屋稼業に対してなのか、俳優に対してなのか。
最後までコミュニケーションギャップがあって、おかしい。

製作:フジテレビ シネバザール

(2008.6.21)

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2008年8月24日 (日)

行きて帰りし物語『また会う日まで』

また会う日まで 上 また会う日まで 下 ギルバート・グレイプ エド・ウッド

『また会う日まで』(新潮社/ジョン・アーヴィング)

会社と家の行ったり来たり、合間を縫って読んでいたのもあって、「行きて帰りし物語」になっていく下巻のはじまりは、復路にふさわしく思えた。

上巻から「あのときの僕は、むじゃきにもそんな理解をしていたのだった」と懐古と批判をまじえた文が折りこまれてくるので、最後には主人公が作家 か何かになって、書いた本がこれなのだろうと予測するのは、たやすい。枠は見切った、それ以上に何かあるか、と構えて読むと、おそらく冗長に感じるだろ う。

主人公は、時間軸にそって、当時の感慨と後付けの理解は混同しないように留意しながら、たどり直す。
他人に一言で断罪されがちな、役者としての自分を、言葉でひらいて、納得する過程が書かれているものだから、あらすじを人に紹介しようとすると、急に三文小説めいてしまうのが惜しく、ためらう。
(たしか、上巻のどこかに、「ことわざや箴言ばかり口にして、その実、何も言っていないに等しい」人物が、少しだけ顔を出していた)
印象だけを言うなら、許すと許さない、愛すると愛されるを行ったり来たりする話だ。

橋幸夫と吉永小百合のデュエット曲「いつでも夢を」が浮かんでしょうがなかったのは、たぶん、タイトルの語感が似て見えたせい。

これを読んで思い出した映画が2本ある。

『ギルバート・グレイプ』(監督:ラッセ・ハルストレム 出演:ジョニー・デップ、レオナルド・ディカプリオ、ジュリエット・ルイス)

ドラマシリーズで好演していたディカプリオの演技を、ロバート・デ・ニーロが絶賛してこの映画ができ、デ・ニーロにいれあげていた当時の自分は、そこからたどってこの映画を観たようなおぼえがある。 田舎、実家、家族のいまいましい面も、取りこぼさず描かれていたように思う。 ビッグ・ママが鎮座する、食事のシーンが記憶に残る。 90年代、ジョニー・デップもディカプリオも、なにかと暴れる癖があると、ゴシップにされがちだった。

『エド・ウッド』(監督:ティム・バートン、出演:ジョニー・デップ)

「史上最悪の映画監督」が冠になる監督、エド・ウッドを材にとった映画。
作中作でエド・ウッドの撮影風景が見られる。
とても愛着をもって描かれるので、エド・ウッドの映画まで面白そうに思えるけれど、おそらく、観たらそれなりに失望するだろうと予想している。

「暮らしの手帖」編集長、花森安治を思い出す。

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2008年8月23日 (土)

ひとつの手錠でつながれた『手錠のままの脱獄』

手錠のままの脱獄

『手錠のままの脱獄』(監督:スタンリー・クレイマー,出演:シドニー・ポワチエ、トニー・カーティス)

『夜の大捜査線』で、白人がいかにも悪どく描かれているのをみると、おしまいにさしかかる頃には変節していることだろうと予測するのは、避けられない。
見過ごせばいいくらいのものを、虐げるもの虐げられるもの、の対立あきらかなところに、善悪が重ねられるのを見るのは、わりきれないところがある。
作られた当時は知らず、古典になったときから模倣が繰り返され、時代がくだった今になって見れば、オリジナルが陳腐にも見えてしまうのは、皮肉なことだ。

タイトルどおり、手錠のままの脱獄(不慮の脱走)の途上で、黒人と白人は罵りあう。手錠ごと、憎い相手がいなくなってしまえばどんなに楽か。おいそれと寛大にはなれない。
「ここではないどこか」を願う女が大きなファクターとなっているのは、邦画『ゆれる』と重なるところがある。

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ゆれる

『ゆれる』(監督:西川美和、出演:オダギリジョー、香川照之)
ガソリンスタンドの女の部屋に、弟があがりこむ。 女は、都会っぽさを備えた男に、諸々のあこがれや不満やらを込めた、重たい感情を向ける。 そのうとましさを、視線の運びで見せている場面が印象ぶかい。

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すべりおちていく日常『レクイエム・フォー・ドリーム』

レクイエム・フォー・ドリーム デラックス版

『レクイエム・フォー・ドリーム』(ジェネオン エンタテインメント/監督:ダーレン・アロノフスキー、出演:ジャレッド・レト)

テレビの前に陣取るのが日課、おばあちゃんのエピソードをよく覚えている。

おばあちゃんは、やせてきれいになったら、ひがな一日ながめるTV番組の陽気な司会者が、諸手をあげてむかえてくれると思っている。

やせたら、日向ぼっこの同輩も気づいてくれるほど、違いは傍目にもあきらか。

誰が彼女を責められようか。

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とりまく家族におかしなところはない『クラム』

クラム

『クラム』(パイオニアLD/テリー・ツワイゴフ)

ロバート・クラムをこの映画で知る。
ジャニスのジャケットで見かけていたことは、あとから気がついた。
ロバート・クラムは、近しい家族の中にも横たわる、性的なインモラルにこだわったフランス漫画家で、こちらはドキュメンタリーになる。

いやでしかたなくい、嫌いだからこそ見てしまう、気にしすぎるのはいっそ好きなのではないか。
描く漫画描く漫画、巨大な臀部をもつ女性ばかり出てくる。あちらこちらがゆがんで過剰なのは近くで見過ぎだからで、もうすこし離れて見れば粗も目だたなかろうに、とも思わせる。

ロアルド・ダールとか楳図かずおと少し近いような気がしているけれど、ちがうかもしれない。

もう一回観たいと思っている。

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見えるものを描く『ベルヴィル・ランデブー』

ベルヴィル・ランデブー

『ベルヴィル・ランデブー』(ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント/監督:シルヴァン・ショメ)

極端にデフォルメされた絵を見るたびに、日本人の絵じゃないなぁ、と思う。
彫が深いのがいいと言ってはみても、実際、顔の真ん中に峡谷が影を落とすのを見ると、おどろくものだし、目に写らないものを、まねてみようとするのも難しい。

孫を囲い込んでいるようにも見える、おばあちゃん。
孫は自転車を買ってもらったとき以外は、楽しそうな顔をしない。

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背景からていねいに『「映画の見方」がわかる本』

〈映画の見方〉がわかる本80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀 (映画秘宝コレクション) ロジャー・ラビット

『「映画の見方」がわかる本 80年代アメリカ映画カルトムービー篇 ブレードランナーの未来世紀』(洋泉社/町山 智浩)

かつて『プレミア日本版』という映画雑誌では、往年の名作映画をとりあげ、当時の製作風景、関係者の証言や時代背景などをとりあげる特集記事があり、おもしろく読んでいた。おぼえているかぎりでは、『悪魔のいけにえ』『地獄の黙示録』などがあったように思う。
時代の何たるかは、人になにがしかの影響は及ぼしているに違いなく、むかし熱狂的に受け入れられたものが、いままったく同じに受け入れられるものではないだろう。
本当によいものは時代にかかわりなく、真理をつくものだとしても、めぐる運というのも無視すべきでない。

いま、そこにある映画を、つかまえることができたら幸せだけれど、既に名がとおった映画も、ふりかえってみれば山ほどある。徒手空拳でそれらにのぞみ、すべてがわかった気になるのも傲慢で、むしろ、わからないところがあるのが当たり前ではないか。

章ごとに、監督ひとりを取り上げて、年を追って映画がつくられた背景を埋めていく。
第2章「ジョー・ダンテ」では、ダンテがディズニー・アニメよりも断然ワーナー・アニメ派だったことが、『グレムリン2』で『グレムリン』をパロディにして笑いのめした、おおもとがあるとして話をすすめる。
バッグス・バニーやロードランナーは、自分たちが「お話」の主人公だということを自覚している。観客にも常に、観ているお前は何者だ、どこまでが「お話」だ、と問う。
ワーナー・アニメが大好きで、その筋をよくつかんでいたダンテが『ロジャー・ラビット』を撮れなかったなんて、残念きわまる。アニメに何ら思い入れのないゼメキスは『ロジャー・ラビット』をつまらない映画にしてしまった、と作者は嘆いている。

周辺状況から、映画を読んでいくところが強いので、好き好きはあると思うけれど、なにもこれひとつが正解ではない。
読むものは、この見方を受け入れてもいいし、受け入れなくてもいい。

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『〈映画の見方〉がわかる本』の二作目。
前作に比べると、作者が好きなものを趣味で選んだ作品だろう、という感じがする。

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2008年8月22日 (金)

スクリーンをはるかにはみだす『夢想の研究』

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)

『夢想の研究』(創元ライブラリ/瀬戸川猛資)

同じ作者の『夜明けの睡魔』(創元ライブラリ)もよいけれど、どちらか無理にでも選ぶとするなら、こっちがいい。
おおまかに言うと『夜明けの睡魔』は推理小説に関する評論で、こちらは映画にかかわるもの。

むかしの映画も、封切りも、こだわりなくとりあげる。文学も、詩も、学問も(推理小説も)顔を出す。
とりとめなく思えるくらい、あちらこちらに材がとられているのに、なにかの部分のみを引き写したような感じはまったくない。

たとえば「センス・オブ・ワンダー」(p.89)では、映画『メトロポリス』をとりあげ、ふたつに割れた評価をくらべてみる。H.G.ウエルズが 口をきわめて酷評をくだしたのはなぜか。彼の想像力に、予算も人にも制約を受ける、映画がかなうわけがない。いやしくもSFファンなら
SF映画に恐れ入ってはいけなく、一定の距離を保つべきである、と説く。

『ブレード・ランナー』程度の都市イメージに驚嘆してはならない。『エイリアン』程度のサスペンスにショックを受けてはならない。『2001年宇 宙の旅』の思わせぶりな哲学趣味にだって、過剰に淫してはならない。そういうことは、SFを読んだことのない人たちや空想の翼を広げたことのない人に任せ ておけばいいのである。
(p.96)

書き方おだやかにせよ、つまらないものはつまらない、とはっきり書く。そのぶん「監督で作品を観る」ことはあまりなく、なるべく無心に観るようにしている、という。

『ロジャー・ラビット』(監督:ロバート・ゼメキス)がどういう作品で、なにがすごいのか、と熱をこめて書かれる章「からくり兎」は、製作者がなにをねらって作ったのかがわかった驚きとうれしさに満ちており、特に印象ぶかい。

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悪役の目からのぞく映画界『星を喰った男』

星を喰った男―名脇役・潮健児が語る昭和映画史 (ハヤカワ文庫JA)

『星を喰った男』(ハヤカワ文庫/唐沢 俊一, 潮 健児)

「地獄大使」役に思い入れがあれば、よりいっそう楽しめるのだろうけれど、なくても楽しめる。
この本が書かれる経緯は『能天気教養図鑑』(幻冬社文庫/唐沢商会)で見た。

マキノ雅弘から始まる監督の話、同時代の俳優の話、楽屋裏の話をいま見てきたように話すのを読むのは、年表の項目に肉付けがされるようで、点でしか知らないことを知らされる。

タイトルが良い。
本棚では、三木のり平の横を占めている。

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ベンチャー社長の一代記『アメリカン・ギャングスター』

アメリカン・ギャングスター

『アメリカン・ギャングスター』(監督:リドリー・スコット)

フランク(デンゼル・ワシントン)は「運び屋」だ。

冒頭部分で、ハーレムを牛耳るボスと、運転手のフランクは、ディスカウントストアを訪れる。
「時代もおしまいだ。卸を抜いて商売をすれば、安くなるのは当たり前。だが、今まで卸を生業にしていた連中はどうなる。たちまち職を失ってしまう」

ボスの後を継いだフランクは、戦争に乗じて、阿片をベトナムから買い付ける。
純度が高いヘロインをお手軽な値段で売ることは結果として、市場に出回る粗悪な既存品を駆逐した。
当然のように、彼は恨まれる。ヤクで商売をしていた、イタリア系のマフィアから「余計なことをするな」「価格協定を受け入れろ」「こちらが流通させるから、お前は卸しに徹しろ」と脅されるが、フランクは良品安価のなにが悪い、とつっぱねる。

イタリア系マフィアは、既に「アメリカに移り住んできて、頼るはファミリーのみのやくざもの」ではない。がっちりした組織ができあがっている。だからこそ、フランクを脅す際にも「どうなっても知らんぞ。下の者が何をやるかまでは責任は持てない」とも言うのだ。
ひるがえって、フランクは組織らしい組織に属さない。(仕入れの際に華僑?に所属を確認されたくらいだ)だからこそ、家族を呼び寄せることで、信頼できる組織をいちからつくろうとした。

だが「人目にたちやすい職業だからこそ、つつましい暮らしを良しとする」フランクの姿勢と、家族の思惑は少しずつずれはじめ、しまいには「おれに話をしたい時には(親族の中でも信頼できる)こいつを通せ!そうでなければ口はきかん!」と、弟たちを恫喝する羽目になる。

家族の流通体制で商売を成り立たせてきたフランクは、司法の手にかかるも、終身刑は免れた。

フランクが恨まれた理由は、さまざまだと刑事(ラッセル・クロウ)は言う。
ヤク中でどうにかなったものの親族はもちろん、お前のヤクのせいで職を失ったものたちがたくさん。
ことに、商売を棒にふったイタリア系マフィアはみな、お前のことを恨んでいるよ。

ここに至り、この映画は、ボスの発言に始まり、ボスの発言に終わることがわかる。
卸を抜いて、高品質を安価で、ひろく販売する新しいビジネスをたちあげた。(仕入れの方法にアイディアがある)
しかし、一代社長は継承に失敗。同族経営から大きな組織に育てるまではいかず、市場から撤退した。

たぶん、骨組みはそういう話だ。
他の部分は枝葉に過ぎない。

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ナポレオン狂じみた『パプリカ』

パプリカ (Blu-ray Disc) パプリカ オリジナルサウンドトラック


『パプリカ』(監督:今敏、原作:筒井康隆)

目にするものを、ときおり「よくできたものだな」と感心することがある。眼前にあるものが、すべて自分の脳のうちにしかないとしたら、自分の意識の外にあ るはずのあれやこれやまで、うまくできているものだし、人はそれぞれに日々を暮らしている。ことは自分を軸にするに限らない。
いま自分のいる世界を、湾曲した葉に、からくもとどまった雫だとして、その外には広くちがった世界がある、というのも否定ができない。

本編にあらわれる、高いところから落ちる、落ちそうになる感じは、そうした疑いを持ったがために足もとがたよりなくなる時の、前触れなしのめまいに重なった。とても気持ちが悪く、気持ち良くもある。

セックスするときには女が男を食べているようなもので、その女とて女にくるみこまれた場所から生まれてくる。あちこちに出てくる穴ぐらや狭い部屋は胎内をあらわしてもいる。
「地上最大のショウ」のパロディ(パンフレットp.6)と見せて、人形たちのパレードとサーカスは江戸川乱歩の世界にも似る。「つまるところ本作は、筒井 康隆という巨匠への今敏監督の壮大なオマージュなのである」(同p.13)とあるが、筒井康隆が江戸川乱歩に見出されたことを思えば、ここにも入れ子の関 係がある。

要素要素を取りだしてみるのも、こうした「枠」をもつ物語には野暮なのでよしますが、大音量の映画館で観るほうが、愉快にちがいない。

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2008年8月18日 (月)

吹き替え声優はもともと一級の俳優だった『とり・みきの映画吹替王』

別冊映画秘宝 とり・みきの映画吹替王 (洋泉社MOOK)

『とり・みきの映画吹替王』(洋泉社ムック/とり・みき)

テレビで放送された洋画を、ぜひ観たほうがいいと説かれ、事情もわからず観た。
録画もしたほうがいい、と熱心に言われたものの、ねうちがわからないままだから、いつか他のものを重ねたのを、価値がわからない奴、とけなされるのも業腹に思えた。

テレビで洋画の吹き替えをやっているのは当たり前、自分が借りたり、映画館で観る時は字幕が当たり前。
どこかで価値の変換がおこったらしく、無料で観られるものは低く、つど払うものは高く置き換えていたらしい。

吹替えには芸が必要で、字幕にあらわれる文字情報の何倍かということと、往年のテレビ吹替えが冷遇されていることが書かれる。
最近の映画事情では、かなり「映画館で吹き替え」も増えてきたような印象があるけれど、『トイ・ストーリー』以降、「登場人物と顔が似ている」だけ芸能人、などが声優をやる。尊重されない事情に、あまり変わりはない。
もちろん、とり・みきも、そういった吹き替えには距離をおいている。

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そうこうしているまに、広川太一郎も亡くなってしまいました。

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2008年8月 9日 (土)

音のない爆発『家族ゲーム』

家族ゲーム
『家族ゲーム』(監督:森田芳光、出演:松田優作)

知らない人に愛想をふるのは割と簡単なところがある。が、ある程度密に関わる人相手だと、相手にとっての「地雷」って何か、「ツボ」って何かを探る必要が出てくる。
それを言われると猛反発しちゃうよ、許せないよ、という「地雷」と
そこをわかってくれると嬉しくなっちゃうなぁ、という「ツボ」

つきあいが短いうちに、地雷をつついてしまっても「まだ仲が浅いんだから…」で済む場合もある。悲劇なのは、地雷が何なのかわからないままに、つきあいだけが諾々と長くなってしまった状況だと思う。
何を言ったら相手が機嫌を損ねるかわからないから、日常会話で話をふることすらためらわれてしまって、どんどん相手がわからなくなっていく悪循環。
そんな息づまる関係が、登場する家族にはある。

一方で、家族に関わってくる家庭教師は、いろいろ話をしてみても最後まで地雷がわからないタイプ。同じ物事に対しても、その時々で相手の反応が180度変わるような人だと、どっちが本当か測りかねるでしょう。そういう人。

独特の自分論理でふるまう家庭教師と、他人との距離に悩み嘆息する家族。
叫び出したくなるような閉塞した状況を、叫ぶのではないかたちで表現したのが、ラストの食事シーンなのだとみた。

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野放図な青春『初体験リッジモント・ハイ』

初体験 リッジモント・ハイ (ユニバーサル・セレクション2008年第8弾) 【初回生産限定】

『初体験リッジモント・ハイ』(1982/監督:エイミー・ヘッカリング、出演:ショーン・ペン、フィービー・ケイツ等)

「若さ」というものは可能性だ、愚かだ、エネルギーだ、などなど人によって定義がちがうけれど。そんな漠然としたものを、漠然としたままに、お話として再現してしまっているのがすごい。

この映画から、乱暴に一要素だけ切り取るならば「性のことで頭がいっぱいだった頃」を描いた青春映画ということになる。
但し、「下ネタらしい」という評判と「前髪が立っているCM映像」を見れば正体がナンなのかは瞬間でばれてしまってしょうもないし、そうした一発ギャグ以上のものには乏しかった『メリーに首ったけ』とは違います。

エネルギーには溢れていても、方向性が定まらないから何をしたらいいのかわからない。どこに振り向けたらいいのか見当もつかない。わからないから とにかくいろいろやってみようともがいては、端から見ればとんちんかんなベクトルに頑張ってみたりする。バカバカ!と思いつつも、登場人物は一生懸命だか ら決して憎めない。

自分の経てきた経験とかぶるようなエピソードがなくっても「こういう時代がたしかに自分にもあった」と思ってしまう。

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